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ダッハウ強制収容所(ナチス・ドイツによる最初の強制収容所)跡を訪ねた, 1983年6月21日

ダッハウ強制収容所 跡, 訪問 〜 1983年6月21日(写真7枚)

1983年4月26日に日本を発ってソ連, フィンランド, スウェーデン, ノルウェー, デンマーク, 西ドイツ及び当時はアメリカ合州国・イギリス・フランスの占領下だった西ベルリンと東ドイツの東ベルリン, ベルリン・ケルン経由でフランス, スイス, 再び西ドイツに入りハイデルベルク, ミュンヘン, フュッセン経由でノイシュヴァンシュタイン城を観た後, 1983年6月21日朝, 再びフュッセンを経由してミュンヘンに行き, その足で(ミュンヘンから北西15, 6km ほどの距離の)ダッハウへ。

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ここ ダッハウ強制収容所 跡には, 多くの写真を含む展示物でナチスによる残虐行為を説明した記念館があり, そこで得たパンフレットには観たものに関してや自分の感想などのメモがぎっしり書き込まれている。そのパンフレットは「旅の諸々」段ボール箱 の中にあるに違いない。この箱(*3)のことは, 以下 note *1 の第1章や note *2 の第2章などで書いた。

*1

*2

*3

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段ボール箱をひっくり返してパンフレットを見つけ出し, そこに書き込んだことなどまとめてみようかと思ったものの, かなり時間がかかりそうで, とりあえず今日はやめることにした。

ダッハウ強制収容所 については, 

解放直後のこういう悲しい歴史もある。

ダッハウ強制収容所は, ナチス・ドイツが 1933年3月にバイエルン州ダッハウに設置した強制収容所。ナチスによる強制収容所としてはブランデンブルク州のオラニエンブルクに設置されたオラニエンブルク強制収容所と共に最も古い収容所であり, 後に次々と創設されたナチスの強制収容所のモデルとなったものとされている。

オラニエンブルク強制収容所は, 1933年2月27日の国会議事堂放火事件の犯人として逮捕されたドイツ共産党員を収容するための施設として, 運用が開始された(因みにアドルフ・ヒトラーがドイツの首相となったのは 1933年1月30日)。当時の収容所においては人種を理由とした収容はほぼ無く, 被収容者の大半はドイツ共産党員ドイツ社会民主党員など「左翼」の政治犯であり, 被収容者の数も後の多くのナチス強制収容所と比較するとかなり少なく, 被収容者の扱いも「比較すると劣悪ではない」レベルだったという(この収容所は設置2年後の1935年3月に正規の収容所としての役割を終えることが決定され, その後には「補助」収容所へと格下げ, 更に2年余り後, 1937年7月には「補助」収容所としての役割も終えている)。

ダッハウ強制収容所においては, 初期の被収容者はドイツ共産党員, ドイツ社会民主党員, そして労働組合員, ロマ(「ジプシー」), 同性愛者, そのほかに犯罪の常習犯などで占められていた(1933年3月23日にダッハウ強制収容所の最初の収容者として収容された60人は共産党員などの政治犯だった)。それが後にナチスによるユダヤ人に対する弾圧の激化と共にユダヤ人の被収容者の数が増えることとなり, 1945年4月29日の「解放」以前にナチス・ドイツが30以上の国々から逮捕・連行し同収容所に収容した約20万人の内, 1/3近くはユダヤ人であったとされている。

以下は, 筆者が当日撮った写真。

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5) 犠牲者を悼む記念碑

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「最初, 彼らは共産主義者たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった, 何故なら, 私は共産主義者じゃなかったから 〜 その後, 彼らは社会主義者たちのところに 〜 そして, 彼らは労働組合員たちのところに 〜 次に彼らは, ユダヤ人たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった, 何故なら, 私はユダヤ人じゃなかったから。そして彼らは, 私のところにやって来た, しかしそのとき, 私の為に声を上げてくれる人は, 一人も残っていなかった」

まずは前章から転載する。

ダッハウ強制収容所は, ナチス・ドイツが 1933年3月にバイエルン州ダッハウに設置した強制収容所。ナチスによる強制収容所としてはブランデンブルク州のオラニエンブルクに設置されたオラニエンブルク強制収容所と共に最も古い収容所であり, 後に次々と創設されたナチスの強制収容所のモデルとなったものとされている。
オラニエンブルク強制収容所は, 1933年2月27日の国会議事堂放火事件の犯人として逮捕されたドイツ共産党員を収容するための施設として, 運用が開始された(因みにアドルフ・ヒトラーがドイツの首相となったのは 1933年1月30日)。当時の収容所においては人種を理由とした収容はほぼ無く, 被収容者の大半はドイツ共産党員ドイツ社会民主党員など「左翼」の政治犯であり, 被収容者の数も後の多くのナチス強制収容所と比較するとかなり少なく, 被収容者の扱いも「比較すると劣悪ではない」レベルだったという(この収容所は設置2年後の1935年3月に正規の収容所としての役割を終えることが決定され, その後には「補助」収容所へと格下げ, 更に2年余り後, 1937年7月には「補助」収容所としての役割も終えている)。
ダッハウ強制収容所においては, 初期の被収容者はドイツ共産党員, ドイツ社会民主党員, そして労働組合員, ロマ(「ジプシー」), 同性愛者, そのほかに犯罪の常習犯などで占められていた(1933年3月23日にダッハウ強制収容所の最初の収容者として収容された60人は共産党員などの政治犯だった)。それが後にナチスによるユダヤ人に対する弾圧の激化と共にユダヤ人の被収容者の数が増えることとなり, 1945年4月29日の「解放」以前にナチス・ドイツが30以上の国々から逮捕・連行し同収容所に収容した約20万人の内, 1/3近くはユダヤ人であったとされている。

以下にリンクを付すヴィデオは, Martin Niemöller (Friedrich Gustav Emil Martin Niemöller, January 14, 1892 – March 6, 1984; a German theologian and Lutheran pastor) が残した言葉(に由来する詩)を紹介したもの。

Martin Niemöller は当初「反共」主義者でヒトラーの隆盛を支持していたが, 後にヒトラーへの幻想を悟り, 反旗を翻すようになる。彼は1937年に逮捕され, その後, ザクセンハウゼン強制収容所(1935年に正規の収容所としての役割を終え1937年に「補助」収容所としての役割も終えた上記のオラニエンブルク強制収容所の東側に 1936年7月より設置されていた強制収容所が ザクセンハウゼン強制収容所)とダッハウ強制収容所に収容された。その後, 不幸中の幸いとして殺害されるには至らず, 1945年に解放されている。

以下は,  Martin Niemöller が残した言葉(に由来する詩)を紹介したヴィデオ。

First they came for the communists, and I did not speak out - because I was not a communist;
Then they came for the socialists, and I did not speak out - because I was not a socialist;
Then they came for the trade unionists, and I did not speak out - because I was not a trade unionist;
Then they came for the Jews, and I did not speak out - because I was not a Jew;
Then they came for me - and there was no one left to speak out for me.

(訳さずとも理解しやすい内容ではあるが, 日本語に訳すなら, おおよそ次のような趣旨, 中身になるだろう。)

最初, 彼らは共産主義者たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった。何故なら, 私は共産主義者じゃなかったから。

その後, 彼らは社会主義者たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった。何故なら, 私は社会主義者じゃなかったから。

そして, 彼らは労働組合員たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった。何故なら, 私は組合員じゃなかったから。

次に彼らは, ユダヤ人たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった。何故なら, 私はユダヤ人じゃなかったから。

そして彼らは, 私のところにやって来た。しかしそのとき, 私の為に声を上げてくれる人は, 一人も残っていなかった。

(Martin Niemöller の日本語版ウィキペディアを見つけた。)

以下は, 上掲ウィキペディアの中の「2 第2次世界大戦後のニーメラー」> 「2.3 平和主義活動家としてのニーメラー」より転載。

1960年以降、キリスト教とユダヤ教に関する和解の必要性が語られ、ドイツ連邦共和国とイスラエル国家の国交樹立のために、ニーメラーも協力した。著名な教会指導者としてニーメラーが加わったならば、西ドイツの対イスラエル外交において大きな働きをすると思われたからであった。告白教会での経験と西ドイツ再軍備への反対者であるために、イスラエルとの国交樹立においてふさわしい人物としてニーメラーが浮上したのであった。1963年、ハイデルベルク大学の旧約聖書学教授ロルフ・レントロフは、西ドイツとイスラエルの間で意見交換する必要性を訴えるために、ボンのドイツ連邦議会に一緒に行くことをニーメラーに求めた。これに対して、ニーメラー自身はアラブ側の立場を考慮して、イスラエル問題にこれ以上深く立ち入れないとレントロフに答えた。キリスト者としての責任に裏打ちされたレントロフと他の神学者たちのイスラエル問題への取り組みであったが、ニーメラーは彼らとは行動を共にすることはなかった。「イスラエル国家との関係をどの程度まで進めるかどうかは、私にとって今でも分からないと」ニーメラーは書き記していた。

上で紹介した彼の言葉(に由来する詩)について。

Martin Niemöller, Wikipedia 英語版(日本語版ウィキペディアの掲載内容はこれの訳という関係になっておらず, 例えば彼の戦後の活動・言動については日本語版の方がより詳述されている)。

「彼らはパレスチナ人たちのところに向かって来た, しかし私は声を上げなかった, 何故なら, 私はパレスチナ人じゃなかったから」

以下の写真は, 筆者が 1983年6月21日にドイツ(当時は西ドイツ)の「ダッハウ強制収容所」跡とそこにあるナチスの虐殺行為を展示した記念館を訪れてから 3ヶ月半ほど経過した同年10月3日に訪れた, 西エルサレム(当時も今もイスラエル領)にあるヤド・ヴァシェム(Yad Vashem, 元のヘブライ語の意味は「ヤド」が「記念碑」で「ヴァ」が「と」つまり and, シェムが「名前」), 展示物の中身に即して言えば, ホロコースト記念館(ホロコースト博物館)の建物のところで撮ったもの。そこでホロコーストについての展示や説明を見た, その日に撮った, Yad Vashem の建物の一部が写っている写真。

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以下, 4点ほど掲載する。

1) Opinion | As a descendant of Auschwitz victims, I have NO interest in the Yad Vashem LAUNDROMAT ー Israeli human rights lawyer, Eitay Mack (Haaretz, January 22, 2020)

2) Opinion | Go to Gaza and Cry ‘Never Again’ ー Israeli journalist and author, Gideon Levy (Haaretz, January 23, 2020)

*イスラエル人のジャーナリスト兼作家による, ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)とイスラエルによるパレスチナの占領, パレスチナ人に対する弾圧についてのオピニオン

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3) 「あなた方自身が かつて犠牲者だったという理由で, 他の誰かを犠牲にし続けることは出来ない」ー エルサレム生まれのパレスチナ系アメリカ人学者エドワード・サイード(Edward Said, November 1, 1935 – September 24, 2003; 主著に「オリエンタリズム」)の発言。

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4)

1983年4月26日に日本を発って, ドイツ(当時は西ドイツ)のダッハウに至るまで

今日 2021年6月21日のこの note は, 1983年6月21日に関して。その前日までに関しては, 以下リンク先 "1983年6月18日ライン下り note" の第1章(1983年4月26日の横浜港でスタートしたユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅, ここまでを振り返る), その 1) 2) 3) 4), それらに同 note のタイトル該当部分を加え, 更にその下のリンク先 note "1983年6月19日ミュンヘン 〜 6月20日ノイシュヴァンシュタイン城(フュッセン経由)note" を加えれば, 今日の note の内容の前日までを振り返ったことに。

というわけで, 1983年6月20日と翌6月21日に観たものは, それぞれ時代背景も意味もかなり異なるものになった。しかし共に人間が為し得る業(わざ)。この「業」, 自分は仏教徒ではないけれども, 仏教用語で且つ一般的な言葉としても使われることがある「ごう」とも読める。

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