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人はどうして、コロコロ意見を変えるのだろう。 〜歴史の流れから〜

自分の意見と同じ意見を見つけると、
ちょっとした疑問が湧く。

別に自分は、そこまで経験もない。
別に自分は、そこまで頭も良くない。
別に自分は、そこまで優秀なわけでもない。

ただ、、、気持ちが悪い。
そんな自分と同じような風貌をした意見が、自分ではない人に述べられているのがどうしても解せない。

共感などされようものなら……
背筋がゾッとする。

人は言う。
「自分を卑下しているのではないのか」と。

決してそうではない。
別に優劣関係をつけ、「自分が正しくないのでは?」と言う話をしたいのではない。


感じた疑問、受けた衝撃。

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ある日のこと。
僕は「Twitter」を開いて愕然とした。

タイムラインの上から3つくらいが、
「成長という言葉だけで就職すべきではない。」
というtweetだった。
(特にベンチャー企業への就職を書いていたと思う。)

確かに僕自身は、上記の意見の第一人者ではない上に、正直論点も違う。
しかし、自分自身が就職活動をしている最中は、あたかも「成長」が模範解答のように述べていた企業たちが、
掌を返したかのように意見を変え、世の中に発信してきた。
この事実に、衝撃を受けた。

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あくまで、みんなが正解だと捉えていることを、
「間違いではないが、正解として受け入れるのもまた違う。」
という意味での批評をした意見が、世間によって「次の正解になっていく」感覚。

ひねくれ者だと卑下される方がずっといい。
バカなのか、と罵られる方が心地もいい。

なのになぜか、世の中にいるのは賛同者達だった。


歴史から紐どいてみる。

かつて1517年、贖宥状を販売したローマ教皇。
「罪をお金で買う」という概念が誕生した。

この状態を「信仰によってのみ義とされる。」と、
宗教の視点から批評し新しい角度の宗派を誕生させたのがマルティン・ルターだ。
(歴史講座ではないので、ざっくりなのは許してください。)

ここで先ほどの成長理論を考えてみよう。

2016年。(より以前からかもしれないが)
当時就職活動生だった自分にとっても、他の学生にとっても。
「ベンチャー企業に行って自己成長する。」という概念が誕生した。

2019年。
成長したいからベンチャーに行く、という学生に対して、
「成長だけを考えるなら大手でも可能だ、その想いだけでベンチャーに就職すべきではない。」
という論が発信されている。

内容は全く違うかもしれない。
ただ、構図は似ていると僕は思っている。

ナポレオン時代に抑圧された人たちが、
戦争終了後独立した国家を作り、「ナショナリズム」が繁栄したように。

世の中は、
「王道と、革命家」によって進んでいく。
王道の意見が衰退を見せると、今まで王道派だった一部の人も含め革命家になっていく。


何が気にくわないのか。

僕が最も気にくわない(言い方を選ばずに言うと)のは、
「中立派でありながら、時代の流れに沿って腑に落ちているわけでもない空虚な意見だけ発信する人達」だ。
特に本気でそれがいいと思っているわけでもなく、ただ、いい方に身を案じていればそれっぽく聞こえ、苦労少なく甘い蜜をすえる。そんな人たちが少なからず各時代にはいた。

いいものだけを持ち逃げする。
この言葉が適切に当てはまるのではないだろうか。

現代においては、
こういうことが適切にできることを
「戦略家」というのだろう。
このような思考性を持っている人を
「頭がいい」というのだろう。
この事象が起き始めた時に、革命家は
「満足」するのだろう。

時代の改革や、革命を狙う人たちにとってこれは大きな一歩なのだ。
自分の意見や考えが間違えていない、そう思える確かな根拠なのだから。

しかし僕は気にくわない。
このような人たちがそれっぽい意見をそれっぽい場所で発信し、共感されているのを見ると、

「薄い」

そう感じてしまう。

薄い意見が世間に広まり、「次の王道」に変わっていく。
その頃には過去の何倍も濃度が薄くなってしまい、
元来出すはずだった味には程遠い、薄味になってしまうのだ。

だからこそ解釈を間違え、暴走し、
世の中の王道意見はまた荒廃を迎えるのではないか。

僕が、「王道を正解だと捉えすぎるのも問題ではないか」
と考えているのも、
王道意見として、「元来持っていたほどの濃度ではないものだから」
という感覚があるからだ。

言葉の外観だけを見て捉えたものが、
君の解答でいいのか?

というのが、僕が投げかけている意見の本懐なのだ。

だからこそ、この意見に賛同される人数が増えれば増えるほど、王道の荒廃や、革命家の登場を阻害し、
繰り返す歴史の歯車を止めてしまう可能性がある。

僕感じた違和感は、これか。

僕の意見を聞き、
「ひねくれてんな」と卑下するのはいい。
「どうでもいいわ」と無視するのもいい。
「面白い」と評価するのはまだいい。
ただ、「共感」と「賛同」が増え、
「薄い意見」に変貌して世に蔓延するのは
とても気持ちが悪い。

止めるべきでない歴史の歯車を止め、
及ぼすはずの繁栄を止め。

世界は今後どこにどう進んでいくのだろうか。

いいじゃないか。
周りに流されて意見を変えたって。

いいじゃないか。
自分自身の確固たる意見を持っていたって。

それが君たちの本懐なら、僕はなんら批評する気は無い。
しかし、義務感や使命感、戦略などというものに基づくものならば、
直ちにそれはやめたほうがいい。

ただそれだけ。
ただそれだけのことなのだ。

もう一度言う、僕は「批評家」だ。
賛同され、共感され、世に革命を起こし考えを全て変革したいわけでは無い。
自らの思うまま、気のままに意見発信をしている子供のような存在だ。

僕に共感し、賛同しているそこの君たちは、
トイザらスで「これ買って!!!」とだだをこねている子供の意見が正しいと言っているに等しい。

僕が欲しいのは共感でも、賛同でもない。
自らの頭で考え、腹落ちし、自らの道を歩むその心意気だけなのだ。

これを読んでいる、君たちへ。
そろそろ、自分の心に素直になったらどうだ。
他の誰でもない、自分の人生なのだから。

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