古き良き慣わしは、「個」だけで生存できない社会をつなぐ楔なのかもしれない。
世の中は、変わった。
遠方の人とはオンライン上で対面会話ができるし、
人と話すのもSNSで意見交換しあえるし、
何より個が重視され、「自分はこうだ」と胸を張って言えるようになった。
過去生きてきた人が「筋だ。」と考え通してきた暗黙の了解は、
世の中の進歩や、テクノロジーの進化を機に急激に変化し、
今やそんなもの合理的に必要ないと淘汰され、消えて無くなっていく。
「これは筋でしょ。」という意見は、
「それは君の考えだよね。」
「合理的に考えて必要?」
という変化によって台頭した新勢力によって迫撃され、影を潜めることになっている。
変化が起きることは決して悪いことではなく、
世の中がその変化を必要とし、求めるからこそ成立する正論の塊であって
だからこそ力強く、より強い勢力となって過去の産物たちの前に立ちはだかるのだ。
ここ最近、両親と話をする機会が多かった。
僕たちITベンチャーの世界観と、
親の持つ世界観は異なり、
ジャケットにタートルネックで「きっちりしている」僕たちが、「ネクタイがない」だけできっちりしていないになってしまう。
「古き慣わし」に合理性はない。
就職活動のヘアスタイルも自由が謳われ、
報連相もオンラインチャットで完了してしまう僕たち世代は、つくづく全ての行動や思考を合理性で片付けようとしてしまう。
そうではない。そうではないのだ。
人間は他の生物に比べ、「理性」を持ち
知性を持っている存在ではある。
しかしながら、人間も動物であり、哺乳類である。だからこそ感情が意思を決定し、理論だけで動くことはできない。
にも関わらず。
なぜか世界は「合理性」の追求へ向かって足を進めている。
合理性を追求することは重要だ。
しかし反面で、人々の感情に配慮し、支え合いながら生きていくことも重要だ。
「個で生きること」にフォーカスされた時代だからこそ、「周囲と生きている」自覚を持つべきであり、古き良き慣わしを批判せず、共存していくべき時代が現代なのだ。
「理性」という言葉本当の意味は、
「感情」という側面を持つ人間が、他の人間と共存していくために守るべき「道理」を追求するためにあるのではないか。
テクノロジーの発展による合理性の進化や、数学的計算式ではなく、
あくまで哲学的で文学的な、「答えのない答え」として作り出された「礼儀作法」や、「人としての筋」こそ、人間がこの世の中で唯一「理性」持つ動物として守るべきものであるのではないのだろうか。
今一度いう。
「個」の時代の到来は、「他」との差別化や違いを認めること以上に、
「異なる他の人とどうやって共存していくのか」を追求していくために到来したのではないか。
「それは君の意見でしょ。」ではない。
「共存するためにどうしようか。」ではないか。
共存できない個性などぶつかりあうための存在にしかならず、共存しないと生きていけないこの世界において、存在している価値はない。
「個々人の違う存在であることを認め合い、その上でどう共存していくのか」
この命題に向けて前に進んでいくことこそ、僕たち現代人に課せられた使命なのではないかと
肝に銘じながら、この混沌の世界の中で僕はまた前に進もうと思う。
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