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「仕事ができる」よりも大事なこと。

自己紹介

突然ながら、僕は今、高齢者の常連さんが多く通い詰める喫茶店で働いている。働き始めてからまだ一か月弱ではあるが、有難いことに、多くの気さくなおじいちゃん・おばあちゃんから話しかけて頂く。どの方も元気で笑顔の素敵な方ばかりだ。おかげさまで、楽しく気持ちよく働かせて頂いている。

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一瞬の出来事

今日も、そんな風に多くの方からお声掛けを頂きながら働いていた。ただ今日は、いつもより忙しく、お声がけを頂いてもなかなか上手くやり取りする時間も余裕もなく、笑顔を返すだけで精一杯だった。

そんな中、モーニングを食べ終わってから2時間以上長居しているおばあちゃんがいた。彼女はいつも長居しているおばあちゃんであったが、今日は一段と長い。編み物なんかも始めている。そして、その彼女に声を掛けられた。彼女は笑顔でこう話す。

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僕はそれを受けて、「(なるほど。仲のいいお友達が亡くなったんだな。でもご高齢になればそういう事(=友達が亡くなる事)も増えていくんだなぁ。)」と思い、

「あぁ~、それは悲しい、残念ですね。こちらの事はお気になさらず、お気の済むまで、ごゆっくりしていって下さい!」と返した。忙しさと、次にやらなくちゃいけない仕事があったので、それだけお答えしてその場を去った。それからしばらくして、そのおばあちゃんはお店に八朔を差し入れして下さり、帰っていった。

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歴史は「点」ではなく「線」である

家に帰り、ふと今日あったそのやり取りを思い出していた。

「26年前と言えば、当時どんな時代だったんだろう」

Googleで調べる。

26年前、そして今日は阪神淡路大震災が起きた日だった。

それを思い出して、僕は胸がズンと重くなった。彼女はただ年月が流れた事で友達を亡くしたのではなく、おそらく震災で命を落としたのだろう。そんな今日だからこそ、いつもは感じすぎないようにしていた「寂しさ」を強く感じて、家に帰って一人になりたくなかったのかもしれない。

僕はそのおばあちゃんの気持ちを後になって気づき、慮る事のできなかった自分を恥じた。同時に、歴史や過去の出来事に関して自分が如何に無関心であったか痛感させられた。

震災は自分の生まれる前の出来事であって、自分には関係の無い事だと、心のどこかで思っていた。しかし今現実として、それはもう自分に"関係のある"事だと突き付けられた。

痛感した。歴史は「点」ではなく、「線」なのだと。

震災は僕にとって過去のモノかもしれない。でも震災を体験し、今を生きている人にとっては現在進行形で「悲しみ」や「寂しさ」が続いている。そんな人と共存している以上、震災は他人事ではないのだ。

過去から現在を捉える

コロナに関してもそうだと思う。

「自分が感染しなければいい」「感染しても若いからすぐ治る」

大きな間違いだ。

僕や、これを読んだあなたの大事な人、当たり前のように傍に居てくれる人を殺すのは自分かもしれない。そう思うべきだ。不運にも震災で友達を亡くしてしまったおばあちゃんですら未だに寂しいし、悲しい。間接的でも自分の不注意が原因で自分の周りの大事な人を失う気持ちはどうだろうか?

僕は少なくとも、あの「おばあちゃん」が、これからも気の済むまで長居できるように、彼女から命や時間を絶対に奪いたくない。これを読んでいるあなたも一度考えて欲しい。

"自分の大事な人や、大事な人が大事にしている人のために、何をすべきでしょうか?"

終わりに

P.S ちなみに八朔にはこんな意味があるそうです。

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読んで頂きありがとうございました!


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