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所謂よかったこと

祖父が倒れたのは、私が中学校三年生の五月だった。
その日は土曜日で、お昼を食べた後に、高齢者施設にボランティアに行く予定だった。

「3年生の真咲ともかさん、至急職員室に来てください。」

友達とお弁当を食べていた私は
校内放送に驚き、教室から職員室に向かった。
校内放送での呼び出しは、初めての体験だった。

  
職員室では担任の先生が待っていた。
家族から電話があり、祖父が危篤とのこと。
今すぐ帰宅するようにと告げられた。

 
 
予想外の電話に、私は慌てて学校から帰った。

危篤ってどういうことだろう?
私は意味が分からなかった。
朝まで元気だったはずだ。

祖父は救急車搬送された為、家族と大病院へ向かった。
話によると、珍しく「頭が痛い。」と訴えていたらしいが、まさかこんな展開になるとは思わなかった。
よくドラマにあるような「今夜が峠でしょう…。」という台詞こそ言われなかったが
医師から「覚悟をしてください。」とは告げられた。
もしかしたら今夜亡くなるかもしれない、とのことだった。
連絡を受けた親戚も、次々に集まってきた。

 
 
なんとかその日は持ちこたえ、医師も「三日以内」「一週間以内」と、祖父の余命を伸ばしていった。
とりあえず、危険な状態なのだろう。

私は一週間後に、運動会があった。
中学校最後の運動会だ。

祖父には申し訳ないが、運動会欠席は避けたかったので
「どうか運動会までは生き延びてほしい。」と願った。
姉は姉で高校で大切な行事があり、やはりそこだけは避けてほしいと願っていた。

身内が亡くなるかもしれない時に、人は案外冷静なんだと思った。
内孫なのに、冷たいものだとも思った。

 
 
私達の祈りが通じてか、祖父は回復し、「今夜が峠でしょう」状態から、その後10年以上生きることになる。
その間に入院や手術することもなかった。
人の生命力の強さを知ったのはこの時だ。

 

祖父は体に軽い麻痺は残ったものの、杖も歩行器も車椅子も使わずに、日常生活が送れた。
表情は倒れる前よりも穏やかになり、以前よりも短気ではなくなった。
どうやら短期記憶が保たないらしいが、祖父は倒れる前から口数少ない人なので、日常会話で支障をきたすことは特になかった。
食事を催促したり、徘徊するといった行為も全くなく
祖父は穏やかな日々を過ごしていた。

変化があるとすれば倒れてから仕事は辞め、デイサービスを利用するようになったことくらいだ。
デイサービスにも嬉しそうに通い、活き活きとしていた。

 
 
 
そんな祖父とは対照的に、祖母は足腰が著しく弱っていった。

若い内からがむしゃらに働き、「子供達によりよい勉強をさせたい。」と燃えていた祖母だ。
体は、限界を迎えたのだろう。

 
周りの高齢者の方と比べると、体が弱るのはあまりにも早かった。
歩行器等を使い、やっこらやっこら歩いたり、動いた。

プライドが高く、なるべく自分のことは自分でやろうとしたが
その結果、転倒してガラスを割ったり、トイレを壊したり
怪我をするといったことが続いた。
認知症も緩やかに進行していた。

 
デイサービス利用をススめても、「あそこはボケた人が行く所だ。行かない。私はまだまだ元気だ。」と、意固地だった。

 
 
孫である私や姉、両親には気を遣っていた祖母だったが
祖父には甘えられるようで
雑用を祖父にあれこれ頼んでいた。

脳に障がいがある祖父と、足腰がやられてしまった祖母はまさに二人三脚で
いいコンビだし、いいバランスだったと思う。

 
 
 
そんな生活が何年か続いたある日、事件が起きる。

ある朝急に、祖父が立てなくなった。
全く、立てないのである。

両親も姉も私も全員が働いていた。
朝から緊急事態である。
車椅子も何もなかったし、家には多少手すりをつけたとは言え
段差はあり、バリアフリーではなかった。

 
祖父が動けなくなったら、祖母を誰が見ればいいというのか。
あくまで二人は一人なのだ。
二人でバランスがとれていたのだ。

私は仕事に行っている間、祖父が立てないことがどうか一時的なものであるように願っていたが
私が家に帰ってからも、祖父は立てないままだった。

 
その日の22:00ぐらいであった。

「ガシャーン!」と大きな音が祖父母の部屋から響いた。
何事だと、家族みんなで駆けつけると
祖母が床に落ちて動けなくなっていた。

「立てない………。」

私達家族は、真っ青になった。
まさかの、祖父母が同じ日に、立てなくなったのだ。

 
それからの一週間、家族は忙しなかった。
何より一番忙しなかったのは、母だった。

車椅子や介護用ベッド、デイサービスやショートステイの手配を大至急に行わなければいけなかった。

 

祖父は立てなくなった日から、夜眠れないようだった。
安眠剤を服用しても効かず、夜中、布団の上でぐるぐるぐるぐるのたわち回っていた。
夜中、うめき声も上げていた。

祖母はそんな祖父を見て感情的に不安定になっていたし
そんな祖父母の様子を見て、家族も気が休まる暇はなかった。

   

一週間後、祖父母は、新たに契約した施設にショートステイに行くことになった。
このままでは、家族全員絶滅してしまう。

両親もようやく、少し心身を休めることができただろう。
私も久しぶりに、ぐっすり眠れた。

 
祖父が亡くなったのは、そのショートステイの日だった。

 
 
初めてのショートステイの帰り道、送迎車内で祖父は嘔吐が止まらなくなり、そのまま施設の方が救急車を手配してくれた。

一旦祖母は家に帰宅し、私は祖母の介護の為、家に残った。
親戚も続々集まってきた。

両親は親戚と共に病院へ向かった。

 
祖母は認知症が進んでいた為、祖父が倒れたことで不安定になったり、祖父が倒れたことを忘れてしまう発言があったりし
私はただただ不安になった。

両親がいない中、私が家を守らなければ。

次々に親戚が集まり、お茶を出したり、祖父母の最近の話をしたり、祖母の様子を見たりと
私は私で神経をすり減らした。

「おじいちゃんもおばあちゃんも、こんなになっちゃったのねぇ。大変ねぇ。ともかちゃんは偉いねぇ。」

親戚は軽々しく、そう言った。
ほんの一部の親戚を抜かして、祖父母の介護は、ずっと私達家族がしてきた。
あえて言わなかったこと、分かってもらえないことはたくさんある。
家でお茶を飲んでいる時間があるならば、祖父の元へ行ってほしいと言いたかった。

私は行くことさえ、叶わないのだ。

 
父から電話が入り、「まだ油断はできないけど、一命は取り留めたらしいから、ご飯をその辺で食べてから一旦家に帰るよ。」と言われて
ホッとしたのも束の間
両親が病院から離れていたわずかな間に、祖父は息を引き取った。

 
10年前、「今夜が峠でしょう」状態から10年生きた。
逆に言えば、「一命を取り留めた」発言に、100%の保障なんて、あるわけが、なかった。

 
姉はまだ子どもが小さかった為、病院に行けず
私は祖母の介護で病院に行けず
両親は移動中で病院に行けなかった。

私達家族は、誰一人祖父の死に立ち会えなかった。

たまにしか顔を見せない親戚が見守る中
祖父は静かに息を引き取ったそうだ。

  
 
私が悲しみに涙している時に、母親は「悲しむことは後でもできる。今はやることをやりなさい。」と、珍しく強い口調で言った。
母はとても穏やかで、私を怒ることはない。
後にも先にも、母がこれだけ余裕がない日を見るのはこれが初めてだった。
母の疲労はピークだったのだろう。
私は涙を拭い去って、何も言い返さず、家の手伝いを続けた。

まさか身内が亡くなると、こんなにも大変だと思わなかった。
確かに悲しむ暇はなく、次から次へと来客があり、お茶出しが止まらず
葬儀の打ち合わせやなんやかんやでバタバタし
一日の終わりが来た時は倒れそうなくらい疲労した。

 
祖父の葬儀は300人以上が参列し
式場の人から、こんなに大規模な葬儀は年に数えるほどしかないと言われた。

私はお通夜に参列するのが、これで人生三度目だったので実感は沸かなかったが
なるほど、のちに色々な方の葬儀に参列した際
確かに祖父は大規模なものだったと痛感した。

 
大変なことややることが多いわけだし
母の余裕のなさに納得するしかなかった。

 
 
 
祖父の葬儀の後、真剣に考えていかなければいけないことは、祖母の今後だった。
悲しんでばかりもいられなかった。
現実はただただ、私達家族に重くのしかかってきた。

 
嫌がる祖母を説得し、デイサービスやショートステイを使えるように手配した。
介護認定もグッと重くなった。
近隣に住む親戚が、私達家族が仕事で手を離せない時、小まめに祖母の様子を見に来てくれた。
とてもとてもありがたかった。

 
ほとんどの親戚は、祖母の状態を見て見ぬふりをした。
親戚が我が家に集まった時、海外旅行に行ってきた自慢をされるたびに怒りを感じた。

両親も昔はよく、海外旅行や国内旅行に行っていた。
ただ、祖父母が介護状態になってから、海外旅行は取りやめた。
何かがあった時に、急に戻れなくなるからと  
行っても近場の国内旅行だけにとどめた。
なるべくショートステイは使わず、自宅で介護を続けた。 

  
うちに親戚が集まっては好き放題飲み食いし、言いたい放題言われ、祖母にちょっと話しかけるだけで
車椅子を押すことさえしない。

 

私は祖父母が介護状態になってからなおさら、親戚に対して複雑な思いを抱いた。
本家の娘として生まれ、家族のことは大好きだったが
こうした親戚関係の諸々があってもひたすらに耐えねばならないことが、苦痛だった。
嫁姑問題や嫁小姑問題や
人間関係の醜さを
私はこうしてずっと見てきた。  

「本家の娘として耐えろ。」
小さい頃、理不尽さに口答えした私に父親が言い放った言葉だ。
 
 
 
一般的に、結婚は幸せだという。
結婚をするように周りからは求められ、結婚をしていない者は問題があるように扱われた。

だけど私は、どうしてもそれが分からなかった。

結婚したら、私は母の代わりの役目を担い
こうして何を言われてもニコニコ流して
何十人もの料理を用意して
仕事して家事をして育児をして
何か悪いことがあったら嫁や母が悪者にされ
介護するのは当たり前で
旅行等に行けないのも当たり前になる。

結婚が幸せだとは思えなかった。
本家の嫁にだけはなりたくないと、むしろずっと思っていた。

子どもが大好きで
子どもがほしくてたまらなかったら   
こういったことも乗り越えていけたのかもしれない。

 
だけど、私は特に子どもが好きというわけでもないし
早く子どもがほしいとも思わなかった。

 
そういった時に
日本の家族制度や家族役割、嫁の理不尽さに
私は幸せを感じなかった。

 
本家の娘として、いつか本家を継ぐように言われ育ったし
もちろんそれは私の絶対的な役割だとは分かっていたが
結婚に憧れを抱けない私も確かにいた。

 
結婚したら、一旦、好きな人と二人だけで暮らしたい。 
家から離れたい。

 
どちらかと言えば、私はそれが本音であり、望みであった。
本家で生まれ育った私でさえストレスがこれだけかかるのに、婿として入った好きな人が、こんな理不尽さに耐えねばならないのは、あまりにも不憫だった。

 
 
 
祖母の認知症は日に日に悪化し、ついに祖母は私にこれしか言わなくなった。

「ともかは、まだ嫁にいかないのかい?」

私をまだ認識はできていたが、もう時間の問題だと思った。
祖母の中には、まだ結婚できない不出来な孫、という認識しか残っていなかった。
どれだけ、私が結婚していないことを心配していたのだろうか。
毎日毎日、そればかりを聞かれる日々が続いた。

 

私は結婚を考えていた彼に、祖母を紹介した。
彼は快く、私の家族や親戚に会ってくれた。

祖母「誰だい?」

彼「○○です。ともかさんとお付き合いさせていただいています。」

祖母「結婚するんかい?」

彼「真剣に考えています。」

 
そんなやりとりを間近で見た時、私は嬉しかった。
祖母が嬉しそうに笑ったのだ。
またすぐに祖母の記憶はなくなり、彼のことも彼とのやりとりも忘れてしまったけど
私は彼となら、幸せな未来を築けると思っていた。
 

 
家族の疲労はピークに近づいていた。
両親は、手足や腰が痛むようになってきた。
共働きで、デイサービスとショートステイ利用だけでは
いよいよ介護が辛くなってきた。
私は私で両親より朝早く、帰りが遅い仕事で、週休二日の休みもなかった。
私の手伝いは微々たるもので、戦力外に近かった。

「入所を考えよう……。」

そう言ったのは父だ。
なるべくは自宅で見たかったが、もう体がボロボロだった。

  
親戚はいい顔をしなかった。

「ショートステイ利用はいいが、本家の嫁は介護をして当たり前。昔は嫁が最後まで介護をした。」 

 
そういったニュアンスのことを言われた。
祖母の介護を全くやらない、海外旅行に行きまくっている親戚に言われた。

「お前らに、何が分かる。」

言ってやりたかったが、余計に母親が叩かれるだけだから、グッと堪えた。
あくまで、父が親戚に交渉した。 
母親が叩かれないように、私も父も必死だったのだ。
 
  
祖母が利用している施設が一番家から近く、入所施設も併設されていた。

「そこならば入所させてもいい。遠くの施設に入所させてはいけない。」

最終的にそういった話にはなったが、入所待機者は86名いた。
86名である。
少なくとも、年内入所はまず無理だろう。
そのあまりにも多い待機者に、私達は途方に暮れた。

入所施設は、基本的に入院以外では亡くなるまで、そこを終の棲家とする。
つまり、86名が亡くならないと、祖母は入所できない。
入所を希望するということは、誰かの死を願うようで嫌だった。
空席ができ、入所が早まるのはすなわち、誰かが亡くなったからだし
誰かの大切な家族が亡くなったからなのだ。

 
老老介護や介護疲れで身内を殺めたニュースがあると、赤の他人が「殺すくらいなら○○させればいいのに。」と口にする場合がある。
私はそれを見るたびに、思った。

殺すしかないくらい、追いつめられているんだよ……

と。

 
日本の福祉の在り方は、まだまだ課題だらけだった。
金銭的にかなり裕福ではない場合、入所施設は待機者が三桁も珍しくないし
日本には「嫁が介護して当たり前」という考えが非常に根深い。

身内に障がい者や高齢者がいない人には、決して分からないだろう。

そうも、思っていた。

 
 
事態が大きく急変したのは、それから一年後だった。

親戚が祖母の介護状態を甘く見て、気まぐれで「今日は私が見るから。」と言ってのけたのだ。

そうだそうだ、たまにはちゃんと現実を見て見やがれ。

私は内心そう思っていた。

 
 
親戚が祖母を見ていたのは僅か二時間だが、その二時間が効果的だったらしい。

親戚「すまなかった。こんなに大変だったなんて…。一日見ているなんて、とてもじゃないけど俺には無理だ。お前達はよくやってるよ。入所施設、早急に探そう。近場じゃなくていい。家族みんなが倒れる前に、早急に入所施設を探そう。お金も、みんなで負担しよう。」

   
たった二時間で、考え方がここまで変わったのだ。
私は是非、福祉のあれこれを決めている国の偉い方や権力者の方々に、福祉施設での実習やボランティアをオススメする。

 
 
 
それから、親戚の方も意欲的になり、様々な施設に声をかけた。
両親も施設の見学をしたり、話を聞いたりするようになった。

親戚の方が意見を覆してから二ヶ月もかからない内に、なんと手頃な入所施設が見つかった。

 
「入所、決まったよ………。○○日だ。」

 
仕事から帰った後、父は静かに私に告げた。
あまりに早い展開に私はビックリした。入所日まで、日にちはあまりなかった。

生まれた時からずっと同じ家にいた祖母が、入所になる。
ショートステイではない。
もう、我が家には帰ることはない。

 

それは、なんとも言えない感情だった。
両親も同様だったのだろう。
家族みんなが落ち込んだ。
入所を願っていたのに、気落ちした。

 
 
父「…おばあちゃんが利用しているデイサービスに、他施設に入所が決まったから、退所することを伝えてきたんだ。そしたら、職員の人がみんな立ち上がって、“よかったですね。おめでとうございます。”って拍手したんだ。」
 
私「は?“よかったですね。おめでとうございます”?拍手?」

 
……確かに、そこの施設は、うちが入所希望を出した時点で待機者が86名。
現在は何名か分からない。
あれから年数が経ったから、待機者は三桁の可能性もある。
入所希望者が後を絶たないことは知っている。
なかなか入所できないことも知っている。
私だってよく知っているよ。

でも!!!

よかったことなのだろうか。
本当にこれがよかったことなのだろうか。
祖母の意思に関係なく、祖母を入所させるしかない現状は
果たして本当に、おめでたいことなのだろうか。

 
 
祖母の入所日の日、祖母は何かを察したのだろう。

「行かないで。置いていかないで。」

と、私達家族にずっと泣き叫んだ。
私達は下を向き、涙を堪えながら、帰宅した。

 
これが、本当に、よかったことなのだろうか。
私達は祖母が入所した日、ただただ涙した。
本当は入所させたくなかった。
かといって、もう家で見るのは限界だった。

祖母がいなくなり、家はガランとした。
いつもならここに祖母がいるのに………と思うと
寂しく、空しくなった。

 
 
あれだけ泣いた祖母も、次の日にはケロッとしていたそうだ。
優しくてお人好しで賢かった祖母が、どんどん変わっていってしまうことに、私は悲しみや寂しさを覚えた。
 


入所施設は清潔感があり、キレイな建物だった。
私達家族や親戚は、職員が驚くくらい、小まめに会いに行ったが
段々と表情から覇気がなくなり
私が誰だかもやがて分からなくなっていった。

子どもの名前も孫の名前もひ孫の名前も忘れていき
最後に覚えていたのは、嫁の名前だった。

それは母が献身的に介護をしたからだろう。
嫁姑間で色々なことがあったと思うが
最後に残ったのは、嫁の名前だった。

 
祖母が入所してしばらく経つと、「ともかはまだ結婚しないのか?」とさえ言わなくなった。
その頃には、私は婚約破棄をしていた。
私はあえてそのことは伝えなかった。

祖母の記憶や頭の中で、私はどうなっているか分からないけれど
もしも認知症になっていなかったら
無碍に扱った彼や彼の家族を許しはしなかっただろう。
「かわいそうに。かわいそうに。」と泣き続けただろう。
祖母はそういった人だった。

だから、こういう意味では、祖母は記憶が保たなくてよかったのかもしれない。
私の婚約破棄問題で、祖母を泣かしたくはなかった。

 
 
入所してからしばらくして、ある日の深夜に祖母は静かに息を引き取った。
やはり、私達家族は誰もその時、そばにいてあげられなかった。

 

 
 

私が障がい者福祉施設で働いていた時、保護者の人は自分を責めていた。

「ちゃんと産んであげられなかった。」

何人の母親がそう口にしたのを聞いてきただろう。
決して母親のせいじゃないのだ。
それでも周りは世間は母親を責め
母親自身も自分を責め
肩身の狭い思いで生活している。

福祉サービスを併用して上手く使う方もいるが
「家族が見るのが当たり前」としか思えない方もいて、家族…特に母親に負担が大きい。
 
「お子さんに障がいがあるのは、決してあなたのせいじゃないです。」

私のような一職員が、結婚して子どももいない私が、障がいがある子を生み育てていない私が
一体そんなことを、どんな顔で言えるだろう。

 
じゃあ何が悪かったの?
じゃあどうして私の元には、健常児が生まれなかったの?

そういった自問自答をさせる瞬間を、ただ与えてしまうだけだ。 

 
私に出会う前から、保護者の方々は既にたくさん悩み苦しみ、今に至るのだ。
一日のうち、数時間
人生でほんのわずかしか関われない私ができることは
たかが知れている。
だけど。

「例えば○○といった施設では、こういったサービスを行っていまして」

「個人差はありますが、薬を服用することで安定する時間が増えることも」

「そういった症状は○○さんだけじゃないですよ。お母様が頑張って子育てされているのは、私、知っています。ひどい母親、なんて私からはそうは全く見えません。施設では、●●な取り組みをしてみまして、様子を見てみますね。お任せください。」

 
私はそうやって、保護者の方に寄り添ってきた。
保護者の方から悩み相談を受け
愚痴の吐き出し場にもなり
そうして、ご家族と施設で連携することで
利用者のよりよい生活を守ろうとしてきた。

 
私は自分の家族での体験や職員としての経験を
仕事に活かそうとしてきた。

 
 
 
 
身内で要介護の人が亡くなった時、「介護大変だったんでしょ?亡くなって楽になったね。よかったね。」と言われたことがある。

そういった話を、周りから何度か聞いたことがある。

 
よかったね。
よかったね。
よかったね。

 
それは私の頭の中に、不穏な風のように響き続ける。

 
あなたにとってよかったことが
他の人にとってもよかったことだとは限らない。

 
人の命や介護は
そんなに単純な問題じゃない。



 
 

 
 




 
 





 

 











 



 
 







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