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日本国旗『日の丸』誕生物語

誕生 日本国旗・「日の丸」~

1
白地に赤く
日の丸染めて
ああ美しい
日本の旗は

2
青空高く
日の丸揚げて
ああ美しい
日本の旗は

この歌は文部唱歌「日の丸の旗」の戦後改訂の歌詞です。
この唱歌「日の丸の旗」は明治44年に発表され、昭和16年と戦後の2回にわたり改訂されました。

どのように改訂されたかというと戦前は、明治、昭和共に2番が

朝日の昇る
勢い見せて
ああ勇ましや
日本の旗は

という歌詞でしたが戦後に改定されました。

まぁ2番目の歌詞を見たら改訂された理由が、なんとなく分かりますね(笑)

そういう事情はさておいて、この歌詞に書かれているように、青空に翻るわが国の国旗を美しいと感じる人は少なくないと思います。

この『日の丸』の美しさに見惚れたイギリスは、明治七年に当時の額五百万円で『日の丸』を買いたいといってきたそうです。(当然断りましたが)

さて日本神道における最高神は天照大神(アマテラスオオミカミ)ですが、彼女が太陽神であることからも分かるように、日本では古代から太陽を信仰していました。

なにかあると「お天道様がみているぞ」といわれたり(今はあまりいわれないかもしれませんが・・・・)

聖徳太子が隋の皇帝・煬帝へ、「日出処天子…」で始まる手紙を送ったり、国名「日本」(日ノ本)という太陽(日の出)を意識してるなど

いくつかの例を挙げただけでも、日本と太陽の結びつきは強いものだと分かると思います。

ですので、この「日の丸」は古代の人たちが信仰していた太陽をシンボライズしたものともいえます。

さてさて、この「日の丸」が歴史上初めて登場したのは

大宝元年(701年)

文武天皇の朝賀の義の時に掲げられた旗の中に「日像」の旗があり、これが「日の丸」の原型といわれています。

とはいっても、太陽の表現の世界の主流は、黄色または金色(月は白色または銀色)が普通で、日本も例に漏れず大概は黄色または金色で表していました。

ちなみに、赤い真円で太陽を表現する系譜は、中国漢時代の帛画に遡り、仏教の伝来とともに日本にもたらされたそうです。

そして、日本では紅白がめでたい色とされていたのが、白地に赤の日章旗が定着する要因になったといわれています。

では、白地に赤丸の意匠がどうして日本国旗(日章旗)として使われるようになったかといいますと諸説色々ありますが、

源平の合戦で源氏が勝利したこと

が大きな要因といわれています。

平安時代まで朝廷の象徴である錦の御旗は

赤地に金の日輪、銀の月輪

を描いていました。

そして、平安末期に平氏政権が誕生すると平氏は官軍を名乗り赤地に金の日輪を掲げ、一方の源氏は白地赤丸を掲げて、源平の合戦を繰り広げました。

古代から太陽を信仰しシンボライズ化してきた日本では日輪は天下統一の象徴でした。

ですので、平氏を滅ぼし政権をとった源氏の白地赤丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として武家政権が源氏の末裔を名乗り受け継いでいったといわれています。

もし、平氏が勝っていたら日本の国旗は赤地に金の日輪になっていたかもしれないですね。

ちなみに戦国時代、武田信玄、織田信長、伊達正宗など戦国武将達も「日の丸」を愛用し、敵も味方も「日の丸」を掲げて戦っていました。

そして、室町時代から徳川家光の第3次鎖国令が出される寛永12年(1635年)までの間に行われた朱印船貿易の際に日本の船籍を表すものとして船の船尾に「日の丸」の旗が掲げた交易船が、台湾からマレー半島に及ぶアジア各地を行き来していました。

また『日の丸』は近世には簡易な装飾として普及し、江戸時代の絵巻物などに、しばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い旭日の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されました。

江戸幕府の所持船の船印も、一般には徳川氏の家紋「丸に三つ葉葵」を用いたましたが、将軍家の所持船には「日の丸」を用いることもありました。

また江戸幕府が一般の廻船と天領からの年貢米(御城米)を輸送する御城米廻船を区別するために、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、これが幕末まで続きました

では、『日の丸』がいつ国旗になったかというと、それは幕末のことでした。

嘉永7年(1854年)
アメリカと日米和親条約を結んだ幕府は、日本の船と外国船の区別をするための標識が必要となり日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じました。

幕府は当初、白地に黒の横一文字の徳川氏の先祖である新田氏(源氏)の旗「大中黒」を日本惣船印にあて「日の丸」を幕府の船印にしようとしました。

しかし、これに「待った」をかける人物が現れました。

それは、幕府の海防参与を努めていた水戸藩主徳川斉昭と薩摩藩主島津斉彬でした。

斉昭は建議書で

「単なる一氏族に過ぎない源氏の印であった中黒を日本の総船に用い、長い歴史を通じて全国民が用いてきた旭の丸を幕府官船の印に用いるとは主客転倒というべきである。」

と主張し

島津斉彬も桜島を左肩に昇る朝日を見た時に

「あのさわやかな輝きをもって、鎖国の夢を覚まさねばならぬ。日本の将来はもあの昇る朝日のようでなければならぬ」
 
と感じた想いから、「日の丸」を使うことを進言し、同時に「日の丸」の試作品を作り、有力大名に配り賛成を求める努力を行いました。

その結果、幕府は「日の丸」を日本国の総船印にすることを決定し、同年(安政元年に改元)7月9日、老中阿部正弘により全国に布告されました。

翌安政2年、島津斉彬が幕府に献上した洋式軍艦「昇平丸」の船尾に日章旗が掲揚され、これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号となりました。

そして、安政6年(1859年)、幕府は幟から旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触書を出し、ここで「日の丸」が事実上、初めて国旗としての地位を確立したのでした。

そして明治3年(1870年)2月27日制定の商船規則(明治3年太政官布告第57号)に「御國旗」として規定され、日本船の目印として採用された、以後「日の丸」は国旗として扱われるようになりました。

しかし日の丸は「国旗」としての法的な裏付けは太政官布告のまま使われ続けたために、戦後、反・を『日の丸』を主張する勢力(日本教職員組合、日本共産党、朝日新聞等)が法的な正当性に異議を唱え続け、平成初期から学校の式典等における日章旗掲揚に係わる問題が頻発しました。


政府は、これに対処するために平成11年(1999年)は国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が公布し、『日の丸』は、正式に国旗として定められました。

日の丸の歴史を紐解いてみれば、このデザインは古代から日本人が愛し使い続けたもので、これを国旗として使うようになったのも当然の経緯だという事も分かると思います。


と、同時に、変なイデオロギーに毒され、歴史を知らず、また学ぼうとせずに『日の丸』に反対する人たちの薄っぺらさと愚かしさも分かると思います。


最後に水戸斉昭が建議書を贈った後も源氏の旗印が有力だった事を老中阿部正弘から知らされた時に送った書を紹介したいと思います。

「ほかの事とは違い、この国旗制定は日本の後々の代までも国印として大切にされる物である。

今、我々が制定しようと努力している国旗は日本の宝であり、制定された上は必ず西洋で出版される万国旗章図などにも掲載されるのである。

幕府においてはこのような点までも念頭において、世界に輝きわたる日本の国旗を制定されたい。」



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参考資料・サイト
『日本史の中の世界一 』
田中英道・責任編集 育鵬社刊 

日本の国旗
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の国旗#.E6.85.B6.E9.95.B7.E9.81.A3.E6.AC.A7.E4.BD.BF.E7.AF.80.E3.81.AE.E6.97.97

日の丸の起源
http://www.rekishinosato.com/essay1_1.htm



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