見出し画像

鮭おにぎりと海 #3

<前回のストーリー>

文字を書いていたシャープペンシルの芯がポキッ、と弱々しい音を立てて折れてしまった。

その音で、うつらうつらしていた自分の体がガクッと揺れた。音に気づいた授業の講師が、ちらりと僕の方を見る。慌てて背筋を立てて、あなたの授業をわたしはしっかり聞いてますよという姿勢で黒板を見る。講師は僕を注意することによって授業が中断され、講義の時間が短くなってしまうことを恐れたのか、そのまま何も見ていないような体で授業を続けた。

ふと視線を外に移すと、強かに雨が降っていた。雨が屋根にあたり、そして地面に激しく落ちることにより、ザアザアという音が反響している。友人たちに聞いても、梅雨の季節は何だか雨ばかりで憂鬱な気持ちになるから苦手だ、という人が圧倒的に多かったけれど僕は割と嫌いではなかった。

特にアスファルトコンクリートに雨が落ちることによって漂う独特の匂い。そして雨が降ったことにより、空気がひんやりとすること。何だかとても気分が清々しい気持ちになる。それと、気持ちがとても落ち着く。

元々人付き合いが苦手だった僕は、大学に入学したときも半月くらいは他の人に声をかけることができずにもじもじしていた。

それが少人数クラスで15人ほどの教室の中で、だんだんみんなが打ち解けてくるようになると、その延長線上で教室の隅で縮こまっていた僕にも声をかけてくれる貴徳な人が出てくるようになった。そのおかげで、少しずつ同じ学部の人たちの顔が見えるようになった。いまだに名前がよくわからない人もいるけれど。

入学したときに、これまでの自分を変えたいという思いも込めて何かサークルに所属しようとしていたのだけれど、いくつかの新人歓迎会に行ってみたものの結局は慣れない大勢の人たちのいる場所で疲弊して、その過程で入ることを断念した。

大学入学に合わせて、大学のある神奈川県戸塚で一人暮らしをするようになった。

実家自体は群馬県のさる田舎町にある。あたりを見渡すといくつか連なった山が見える。基本的にこの場所では、車がないと生きていけない。一番近い駅には、車で20分程度かけて運転しないと辿り着けないし、バスを使おうにも2時間に1本というペースでしかこない。

コンビニは辛うじて自転車で10分という場所にあったが、スーパーについては車で15分程度かけて運転しなければならない。しかもそのスーパーも大きい店舗ではなく、地元に根付く小さなお店がポツンとあるという次第だった。今思うと、恐ろしく不便な場所だったと思う。

母親は僕が高校2年生の時に新しい恋人を作って出て行ってしまった。たぶん何もなさすぎる田舎町と、頑固すぎる父親に愛想を尽かしたのだと思う。残された父親と妹と僕は、なんとか自力で生きていく術を身につけるしかなかった。

妹の麻李(あさり)はその当時中学2年生で、母が出ていく時に一定の抵抗を試みたものの、出て行ってしまった後は諦めの境地に至ったのか、1週間も経った頃には父と僕の分もまとめて下手なりにご飯を作るようになった。

そんな状況がありながらも、ようやく僕自身も田舎町を離れることができた。後に残してきた妹のことが心配ではあったので、定期的に連絡をするようにしている。妹は現在ちょうど反抗期らしく、最近あまり父親と口をきいていないらしい。そして我が家の家計は思いの外苦しくて、アパートの家賃は父親から半分しか出せないと言われたので、やむなく入学と同時にアルバイトを始めることとなった。

入学した当初は横浜駅から程近い場所にあるイタリアンレストランで働いていたのだが、自分のあまりの対人スキルのなさに愕然とし、試用期間となる2週間が終わらぬ頃に早々とそのアルバイトを後にした。

次に始めたのが派遣サイトを通じてのアルバイトである。大学で言葉を交わすようになった数少ない顔見知りから紹介してもらったのだが、これが割と僕の性にあっているようだった。缶詰工場でラインに立って仕事したりイベント会場で警備員をやったりその時々で自分のやりたいことを選べるということも魅力的な面である。

大学生は時間があまりあるほどあるが金がない、と先輩から言われていたのだが、むしろ僕の場合は時間もないし金もない状態だった。日中は大学に通い、夜は派遣サイトで紹介されたアルバイトをこなす日々だった。気づけばあっという間に次の日がやってくる。

それでも、僕自身はそんなふうにあくせく時間の隙間もなく動くことで生きている実感を得ていたのかもしれない。立ち止まってしまうと、自分の中の何かが全部ガラガラと崩れ落ちてしまいそうな気がしたから。何に急きたてられているのか自分でもよくわからなかった。

大学1年の初夏、僕はただただもがき続けていた。


この記事が参加している募集

末筆ながら、応援いただけますと嬉しいです。いただいたご支援に関しましては、新たな本や映画を見たり次の旅の準備に備えるために使いたいと思います。