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鮭おにぎりと海 #58

<前回のストーリー>

エッフェル塔を見ると、かつての思い出がじわりと蘇ってきた。朧げに思い出すのは、祖母と初めて東京へ行った時の記憶。これまで忘却の彼方に追いやられていた。

♣︎

祖母は、俺が大学入ってすぐの頃に、76歳でこの世を去った。最近の平均寿命からすると、少し下回るくらいの年齢だ。

死ぬ1年ほど前から急速に認知症が進み、病院へ祖母に会いに行ってもすでに俺のことがわからなくなっていた。最初こそ、親父の名前で俺のことを呼んでいたが、最後はもはや誰だかわからないらしく、俺のことを見てもキョトンとした顔をしていた。死因は確か衰弱死だったように思う。

俺が小さい頃は、よく可愛がってくれていたらしい。祖母が死んだ後の葬式で、周囲の人たちは口を揃えて「お前は孫の中で一番可愛がられていたんだよ」、と俺に言った。俺自身は、彼らの言葉がなんだかピンと来ていなかった。いつの頃からか、父親の実家へ行って祖母と顔を合わせても、なんとなく何を話せば良いのかわからなくなってしまっていて、どこか距離ができているような気がしていたからだ。

元気な頃の祖母は俺が訪ねるたびに、「クラちゃん、クラちゃん」と呼んで、その顔には満面の笑みを湛えて出迎えてくれるのだが、その熱烈な歓迎ぶりが逆に俺自身は疎ましく感じる部分もあったのだ。今思うと、なんだか心情的にはかわいそうなことをしていたと思っている。

俺が小さい頃に、とても可愛がってくれたという祖母との思い出の中で唯一と言って良いほど記憶に今でも残っているのは、一緒に東京タワーへ行った時のことだ。

♣︎

認知症が始まる前は、本当によく働く人だったらしい。父親の実家は地元に根付く惣菜屋をやっている。昔は、俺の叔父にあたる父親の兄と、祖母が二人三脚でお店を切り盛りしていた。祖母自身も自分がいなければ店が回らないと思っていたのだろう。いつ会いに行っても祖母はキビキビ動いて手も動く、元気だった頃の彼女の印象はそんな感じだ。

俺の父親と母親は共働きだったので、俺は小学生の頃よく家に一人で留守番をしていた。その状況を見かねた祖母が、暇を見ては俺のことを預かって面倒を見てくれた。

そんなある時、休日にたまたま両親がどちらも仕事で家に不在の日があった。

その日祖母は休みの日に一人でいるのはかわいそうだと、俺の手を引いて東京へ連れて行ってくれた。そのことは、あとから聞いた話だと一悶着あったらしい。そもそも祖母と俺だけで東京に行って危なくないのか。祖母は周囲の言葉に対して「年寄り扱いするんじゃないよ。」と跳ね除け、半ば強行的に俺を東京へ連れて行ったらしい。

東京へ行くまでに電車をいくつか乗り継いだのだが、ずっと祖母は「大丈夫だからね。」と俺に向かって話しかけていた。それはもしかしたら、祖母の自分自身に対する鼓舞だったのかもしれない。その時握っていた祖母の手が小刻みに震えていたことを思い出す。

その日向かった先は、東京タワーだった。のっぽで、自分よりも何倍も大きな塔を初めて見た時の衝撃は、今でも忘れられない。なんというか、自分にはあまりにも大きすぎる存在だった。その横で祖母も一緒に東京タワーを眺めていたのだが、ふと俺が顔を上に向けて祖母の顔を見ると、彼女の目からは一筋の涙がこぼれ落ちていた。

♣︎

東京タワーを見た後、俺は祖母に手を引っ張られて、どこかのレストランに入った。ファミレスではなく、きっとあれはきちんとした洋食屋さんだったと思う。

祖母が注文したのは、確かハンバーグだったはずだ。祖母は、まだ幼くて要領を得ない小学生の俺に対して、「ありがとね。」とつぶやくのだった。「ありがとね。」と言いながら、俺の手を優しく撫でる。その時の祖母の顔は、今までに見たことがないくらい穏やかだった。その頃の俺は、祖母のその言葉の意味が、そして彼女の表情が当然ながら理解できなかった。

その後の祖母は、やけに上機嫌だった。軽く鼻歌を歌っていたような気がする。帰りの電車の中で、初めての場所に行った疲れからか、俺はあっという間に夢の中へと落ちていった。ぼんやりとだが、俺の小さな体を祖母は自分の傍に寄せて頭を撫でてくれていた気がする。

♣︎

あの時食べたお子様ランチの味が今でも忘れられない。あれはどこだったのだろう。あの日の記憶を頼りに、東京中の洋食屋さんを色々探し回ったのだが、今でも同じ味を見つけることができていない。

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