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鮭おにぎりと海 #60

<前回のストーリー>

夏くらいから、母が疲れたと言って横になることが多くなった。

母が20代の初めの頃に、父と職場結婚をして円満退社という形で会社を辞めた。それから程なくして、私が生まれた。会社を辞めて以来、ずっと家事ひとつで生きてきた人だった。

家に帰るといつでも美味しそうなお菓子が待っていた。最後の一つをめぐって、妹と壮大な姉妹喧嘩をしていたことを思い出す。その度にお母さんは、「お姉ちゃんだから我慢しなさい」とどこかで聞いたことのあるセリフを口にしてその場を諌めるのだった。

夕ご飯はお母さんの手作りがほとんどで、そしてとても美味しかった。お母さんが作ったご飯を食べるのが毎日楽しみで、小学生の頃は脇目も振らずに急いで家に帰ったことを思い出す。

ここ最近はご飯を作ると、お母さんはそのままベッドに寝てしまうことが多くなった。お父さんも妹も私も、お母さんの体調を心配していたのだけど、最近ちょっと働き詰めだったからと言って頑なに病院に行こうとしなかった。

そんなお母さんのことをなんとか説き伏せて、一緒に病院へ行ったのが12月上旬の頃だった。お医者さんから話を聞くところだと、すぐにでも入院が必要とのことで、急いで軽く身支度だけ整えてそのままお母さんは入院することになった。

それからはてんやわんやの騒ぎだった。父ももともと明るい人であたけれど、母がいなくなって初めて私の家族は母の明るさで成り立っていたのだということを理解した。

母が家からいなくなって数週間は、私が母の代わりとなって家の物事を切り盛りした。掃除から何まで母に頼りっぱなしだったので、ここで私自身いかに母に甘えていたのかということを思い知る。たぶん、妹も私も俗に言う箱入り娘というやつだった。何にも手順がわからない。そして父も全くと言っていいほど何も家事ができない人だった。

私たちはわからないもの同士、知恵を出し合ってなんとか家事をこなした。掃除も洗濯もご飯も、何もかもが力仕事だった。こんな作業を、よく母は一人でこなしていたものだと感心する。

ということで、12月はしばらくの間目が回るような毎日だった。母に会いに定期的に病院へ通っていたし、とてもじゃないが大学の授業を受けているような雰囲気でもなかったので自然と足が遠のいた。

そのせいで、戸田くんという男の子のことをも頭の片隅に追いやられてしまった。彼は、大学でいつの間にか毎週決まった時間に食べるようになった人だった。絵に描いたような真面目な青年で、できればもう少し彼のことを知りたいと思うようになっていた。でも、母が入院したことでそんなことを気にかける余裕がなくなってしまった。

所詮、人との関わりなんてものは、その後深い付き合いになるかならないかなんていうものは本当にタイミングでしかないと思う。

母の容態はやはり芳しいものではないらしく、歳を越しても家に帰ってくることはなかった。日に日に痩せ細っていく母の姿を見て、私は居ても立っても居られなくて病院に行ってもすぐに病室を飛び出してしまうのだった。

母がある時、いつになったら家に戻ることができるのかな、と目を細めて病院の外を眺めるのだった。

1月に入ってからはようやく新しい生活様式にも慣れてきたので、時々は気が向いた時に大学へ行った。親友の楓から、休んでいた分の授業のプリントをもらってなんとか授業のカリキュラムに遅れないように奮闘した。

そして学校に行かない日は、バイトに励んだ。その時の私は、何かに一生懸命取り組むことでしか目の前の厳しい現実から目を逸らす方法を思いつかなかったのだ。

思えば、あの頃の私は若かった。

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