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鮭おにぎりと海 #18

<前回のストーリー>

その人に会うのは、実に数年ぶりだった。

高校生の時に、突如家を突然去っていった母親。泣きじゃくる妹の麻李を横目にして、彼女は一言「ごめんね」と一言つぶやいてさっさと自分の荷物をまとめて出て行ってしまった。その日を境にして、僕はこの人とまた会うことはないだろうとぼんやりと思っていた。

それがどういうわけか、目の前に座ってぷかりとやけに細いタバコを口にあてがって薄い笑みを浮かべていたのだった。突然、僕の携帯宛にメールが届いた時には正直会うことを躊躇った。きっと今会ったところで、話すこともないと思っていた。いざ、対面していてもその気持ちは変わらない。

荻窪駅から5分ほど歩いた場所にある、どこか裏寂れた商店街にあるやけに狭い喫茶店の2階。僕自身はいまだにこの状況が腑に落ちないままお互い口を閉ざして、すぐには口をつけにくい濃くて熱い珈琲が入ったカップに視線を落としていた。壁にかかっているやけに年季の入った柱時計のコチコチとした音が、妙に耳に痛い。

口火を切ったのは、彼女の方だった。

「麻李は元気にしている?」

何を今更この人は言っているのだろう、と半ば呆れながらも「この間連絡した時は、いつも通りのような感じだったよ」とボソリと僕は声を出した。「父親とも今のところはうまくやっているみたい。」

「そう、あの子はわたしに似て繊細なところがあるから、少し、心配だったの」

彼女は口に運んでいたタバコを、じゅっと灰皿に押し当てて火を消した。正直どの口が言っているのだと思った。その次に彼女が発した言葉はさらに僕の想像の上をいくものだった。

「わたし、今付き合っている人と結婚しようと思っているの。もうすぐ子供も生まれる予定なのよ。」

次の日の夜、たまたま帰り際に「神様」こと神木蔵之介と出くわした。彼とはひょんなことがきっかけで自然と喋るようになった。そのままなんとなく、大学の近くでご飯を食べようということになった。

母親と会って以来、どこか胸に風穴が空いたような心情だった。僕が人とうまく付き合うことができないのは、そうした複雑な家庭環境があるような気がした。

そのことを、酒を飲んで若干舌が回らなくなった頭で、これまでの背景も含めて自分の心情を「神様」に対して吐き出した。

「うーん、それは間違いなく関係しているだろうな。」

と、平然とした顔で「神様」はのたまう。短く生えた顎鬚を触りながら神妙な面持ちで神様は言葉をつなぐ。

「この間やっていたテレビでやっていたのだけれど、人の性格はやっぱり家庭環境で築かれるものが大きいらしいからな。それと、人から話を聞いている時にはその言葉を否定するようなことを最初にいうことは避けた方が良いらしい。」

それはモテる男の秘訣みたいなものを紹介する番組でやっていたんだけどな、とガハハと笑いながら言う。最近神様とご飯行くことが多くなってわかったけれど、この人は見た目とは裏腹に割と周りから影響を受けやすい人らしい。

でも確かに僕自身、神様に肯定されたことによって今の自分がどちらかと言うと人付き合いが良くないと言う事実に対して、その贖罪を得られたような気がしてどこかホッとしたのだ。そして神様はさらに続ける。

「でもな、いくら家庭環境が複雑だからといって、そこに胡座をかいてはいけないぞ。世の中で大成した人の多くは、なまいきくんのような複雑な環境があって、それを乗り越えるべく猪突猛進という感じで突き進んできたような人が多いそうだからな、雑草魂だよ、雑草魂。」

どうせこの言葉もどっかの本かテレビかで拾ってきた言葉何だろうと思いつつ、とりあえずは頷いておく。たとえそうした逆境を乗り越えることが自分を変えることの近道だろうとわかっていたとしても、それを乗り越えることができないから人なんだと思う。少なくとも世間一般の常人では、そうしたことを乗り越えるためにはそれだけの膨大なエネルギーが必要なのだ。今の僕には、そうしたエネルギーは、ない。

「まああれだ、かの有名なチャールズ・ディケンズも、人生において我々が囚われている鎖は、我々が生み出したものに他ならない、と言っている。つまりだ、君の辛い気持ちは推し量るべきものは十分にあると思うが、その辛い部分だけを見ていてはその先から何も生まれるということではないか。」

神様も、お酒によってどこか呂律の回らなくなって目がトロンとしてきた状態で言う。

「チャールズ・ディケンズって誰ですか?」

「知らんのか、クリスマス・キャロルだよ。スクルージおじさんだよ。知らんのかネ。君は。」

スクルージだかスクラッチだかよくわからなかったが、誰かが側で一緒にお酒を飲んで話を聞いてくれる、という時間は確かに貴重かもしれない、そんなことを思った夜だった。結局その日も目を開けた時には、神様の家に転がり込んでいたのだった。

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