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短編小説:月下の花見、私の彼氏

 羽のように軽い風が、ひとひらの花びらを運んできた。私は髪に付いた桃色のそれを、指でそっと摘む。ああ、今年もこの季節が来てしまったか。冬から春へのちょうど変わり目の時期は、それまでの気温がまるで嘘かのように体をポカポカと温めてくれる。たくさんの人たちが新しい気持ちで始まりに臨むことだろう。その中で、私の心だけがひとつ置いてけぼりにされてしまうのだ。

*

 私の家族は母と父と私、それから母の父に当たる祖父の4人暮らしだった。そう、「だった」と過去形で述べるということは、残念ながら私の家族はすでに4人で一つ屋根の下に住んでいない。今はおそらく母が1人で住んでいるはずだ。

 父と母はいわゆる職場結婚というやつで、もともと同期だった2人は仲がよく、付き合って数ヶ月した時に私を母が身篭り、既定路線という形で式を挙げた。母は若くして私を産んだこともあり、そのままの流れで家庭に収まるつもりは毛頭なかったらしい。旦那と一緒の職場で働くという気まずさからか、私を出産してすぐに母は外資系の会社に転職。そのあとはもう目が回るような忙しさ。父は父でそれなりに出世コースを歩んでいたようなので、2人とも毎日働き詰めだった。帰ってくる時間も夜中遅く、時には朝帰りの時もある。子どもの頃は、朝起きると2人のどちらかがソファにぐたりとしていることが当たり前の光景だった。

 では2人がまるで馬車馬の如く働いている間、誰が私の面倒を見たか。消去法にすると、1人しかいない。私のたった1人の祖父、「カレ爺」だ。カレ爺と私が呼んでいたのには、もちろん理由がある。

 1つはカレーが3食のご飯よりも好きであるということ。カレ爺はよく自分で香辛料から炒めて煮込むところまで、一貫してカレーを作っていた。おかげで私の家の中はいつでも芳しい香りで充満していた。母はいつも帰ってくるたびに「インド人の匂いがする!」と言ってプリプリ怒っていたけれど。どうやら昔バックパッカーとして、世界中を旅していたらしい。

 2つ目、カレ爺の口癖が「俺はもうヨレヨレの枯れかかった樹のようなもんだからねえ」だったこと。「枯れ」とカレをかけている。物心ついた頃からカレ爺とよく言い合いになったことはちょくちょくあったが、その度にどこか決め台詞かのように、最後その口癖を言うのだ。いい歳して立場が悪くなると、はぐらかす物言いをするのはずるい。言われた私は、それ以上カレ爺に対して強い言い方をすることができなくなってしまう。

 最後3つ目がある。まだあるのかよ、と思ったそこのあなた。ここが一番重要なんだ。カレ爺は私に対してことあるごとに、「将来俺を結奈の彼氏にしてくれよ」と寂しげにぽつりと呟く。今考えると、頭のおかしな爺さんだったと思わざるを得ない。

 中学校に進学する前、ビー玉よりも純情だった幼き私は、カレ爺の言葉に対して無邪気に「うん、彼氏になって、それから結婚しようね。」と返していた。今思えば顔から火が出るほど恥ずかしい。私の返答を聞くと、カレ爺は節くれだったその手で私の頭を優しく撫でてくれた。

 中学校に入ってしばらくしたあたりから、綺麗なガラス玉よりも透き通っていた私の心は次第に曇りがかり、見ようによっては酷くくすんだ鈍い色彩を放つようになった。カレ爺が「彼氏にしてくれよ」と言うたびに「冗談は寝てからにしてね」ときっと睨む。その度にしょんぼりするカレ爺の姿を見て、後から居た堪れない気持ちになるのだった。

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 自身の発言に変態の習癖が見て取れるカレ爺であったが、彼が私の家族の中で唯一の味方だったことは曲げようのない事実だった。私が生まれた頃より家事から何までほっぽりだして、産休と育休を取った人の中で誰よりも早く職場復帰を果たした父と母。彼らはカレ爺がいることをこれ幸いと、家のことは何もかもカレ爺に押し付けた。

 そのくせ私が高校進学の際に音楽の道へ進みたいと主張した時には、猛烈な勢いで反対をした。将来毒にも薬にもならないことを学んでどうするの、と目を釣り上げて私を口撃する。そんな時2人を宥めてくれたのが、カレ爺だった。 

 そういえばそこからさらに記憶を遡ると、小学生の時にクラスの男子にからかわれて泣いて帰った時も、カレ爺は暖かく出迎えてくれた。「結奈は生き方が下手だな」と言って、庭で育てているレモンを使い、温かいレモネードを作ってくれた。市販のものと比べるとかなり酸っぱかったと思うけれど、後にも先にもあれほど美味しいレモネードは飲んだことがない。

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 大学受験の際も、また親と壮絶な言い争いをした。その時もカレ爺は私サイドに立って色々言ってくれたが、「高校は許したけれど、大学はダメ。音大っていくらお金がかかると思ってるの。自分で稼ぐなら別だけど、そんな覚悟あなたにはないでしょう」とここぞとばかりに父と母は私を理論責めにした。

 その言葉は鋭いナイフの先でえぐられたような、張り詰めた痛みを持って私の心を突き刺す。一言も言い返せない自分が悔しくて、気がついた時には下唇から一雫の血が流れていた。いつも家では口をきかない父と母であったが、この時ばかりは手に手を取って団結する。大人はずるい。

 カレ爺の後方支援も虚しく、私は最終的に音大に行くことは諦め、私の学力の範囲で行くことのできる公立大に進学した。今思い出しても、夢でうなされるくらい悔しい出来事だった。

*

 大学の入学式の日、カレ爺は私が出かける前に「すまん、俺の力不足だ」と言って、何か小さな包みを手渡してくれた。中身を開くと、桜が全体に縁取られた万年筆が小箱に収められている。万年筆とはまだ使う年頃ではないとは思ったものの、そのカレ爺の気遣いが嬉しかった。

 最後カレ爺は玄関を出ようとする私の背中に向かって、「夢は持ち続けろよ、それがいつか結奈の人生を導いてくれるはずだから」と言った。ふと振り返ると、昔カレ爺が「彼氏にしてくれよ」と言った時のような、どこか寂しげな目で私のことを見つめていた。

 大学の入学式から家に帰ると、がらんとしていて人の気配を感じない。なんだか妙な胸騒ぎがしてリビングのテーブルの上を見てみると、一通の手紙が置いてあるではないか。

 そこにはみみずが張ったような文字で、「今までお世話になりました。探さないでください。」と書かれている。慌ててカレ爺の部屋へ行くと、服から何まであらかたなくなっていた。外の車庫には、私が生きている中で一度も動いたことのないと思われる二輪車が、綺麗さっぱりなくなってしまっていた。

 それ以来、カレ爺の姿を私は直接見ていない。カレ爺を中心として、かろうじて繋がっていた私たち家族は、まるで均衡を失ったかのようにバラバラになった。最終的に父と母は離婚し、父が家を去るというなんとも痛ましい結末を迎える。母と2人でいることが気詰まりで、私自身も大学に進学して2年目の春に、実家を出て一人暮らしを始めた。

 カレ爺が家を出てから少しして一枚の絵葉書が家に届いた。まだ一人暮らしを始める前の話。みみずの張るような例の字で、自分は今旅に出ています。今は四国のあたりをうろちょろして、お遍路参りをしています、とVサインで晴れ晴れとした顔をしたカレ爺が写真に写っていた。

 そこには追伸と書かれていて、見ると「数年かけて日本を周り終えたら、結奈に会いに行きます。その時はきっと昔よりもいい男になっているはずなので、結奈の彼氏にしてくれよ。」と書かれている。

 カレ爺のその絵葉書に対して、ゆっくりと丁寧に返信を書いた。カレ爺が大学入学の祝いでプレゼントしてくれた万年筆を使って。

*

 カレ爺がいなくなってから、4年の月日が流れた。私は就職試験に苦労したものの、最終的に当初希望していた音楽関連の会社に就職することができた。カレ爺との文通は2週間に1回程度のペースで続いており、これではまるで彼氏彼女の関係ではないかと軽くため息をつく。

 学生時代に住み慣れた街を離れ、新社会人となるタイミングで東京の安アパートに引っ越した。東京といっても中心地からだいぶ離れており、近くには透明な色をした川が流れている。考え事をしていたら、すっかり日が暮れてしまった。慌てて買い物に出かけた帰り、並木道に桜の樹がずらりと並んでいることを発見する。

*

 数日前にカレ爺から届いた絵葉書によると、どうやら今は九州にいるらしい。東京よりも一足早く、桜の見頃を迎えたようだ。最後追伸と書かれている部分を見て、思わず笑みを隠すことができなくなった。

 深い色に染まった空の中で月が浮かび上がり、光が斜めに差し込んでいた。ぽかりと仄かに浮かぶ満開の桜を、ひとり眺める。

 私の彼が、もうすぐ帰ってくる。きっとインド人の匂いを漂わせて。


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 yuca.さんの「小説noteでお花見!」という企画に参加させていただきました。もうほとんどの場所で散ってしまいましたが、北海道ではギリギリ見頃なのでしょうか。桜が見られることは、日本人として生まれて良かったと思えることのひとつですね。

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