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ビロードの掟 第24夜

【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の二十五番目の物語です。

◆前回の物語

第五章 日曜日よりの使者(2)

「相田さんのこと、下の名前で呼んでもいいですか?」

 三度目に優奈とインドカレー屋で話をしたときに聞かれた。毎週というわけではないが、ほぼ定期的に凛太郎は彼女と会っている。なぜか決まって日曜日に会う習慣が定着していた。

 詳しくは聞いていないのだが、土曜日に習い事をしているようで、日曜日に会うほうが都合が良いらしい。凛太郎自身、気がつけば優奈と会うことを楽しみにしていた。彼女が姉の優里と似ていることももちろん関係していることは間違いない。加えて、不思議と彼女といることで安らぎを覚えている自分がいる。

 もうだいぶ親しみを感じていたし、凛太郎は彼女から下の名前で呼んでいいかと言われた時に断る術を持たなかった。むしろ、なぜこれまで彼女は自分のことをずっと苗字で呼んでいたのだろうと不思議な感慨さえ覚える。

「いいですよ。好きに呼んでください」

「ありがとうございます」

「それから別に敬語を使う必要もないですよ」

「え、あ……そうですよね。優里と同じ学年ってことは私とも同じ年齢ってことですもんね」

 彼女は戸惑いがちな様子で、鼻の下を右手人差し指の第二関節のあたりで擦るのだった。その瞬間、ちらりと彼女のチャームポイントとも言えるホクロが視界に入る。

*

 その後も優奈と何度か会うことになった。

 彼女と会うのは何回目になるだろうか。おそらくそろそろ両手を使わなければならないくらいの回数になっている気がする。今凛太郎が付き合っている奈津美に対して、なんて説明しようかといつも頭の中で考えているくらいにはちょっとした罪悪感が芽生えていた。

 優奈が無邪気な様子で凛太郎へ微笑みかける。今回二人は今鎌倉駅からほど近い海へときていた。12月の半ばを過ぎた頃で、風が冷たい。夏はたくさんの人たちで賑わう海岸も、さすがに季節外れだけあってほとんど人の気配がしなかった。

 駅で待ち合わせをして現れた彼女は、ベージュ色のロング丈コートと紺色のマフラーを身につけていた。「待たせちゃったかな」と屈託ない様子で笑う。気のせいかもしれないが、心なしか着膨れしているようにも見える。

 そのまま二人でぶらぶらと海岸線を歩く。確かに神木に言われた通り、凛太郎はなぜかつての元カノの妹と一緒に海に来ることになったのかよくわからなくなっていた。砂浜に打ち寄せる波の音は、とても静かだった。

「私……ね、最近鶴の恩返しの話をふと思い出すの」

「鶴の恩返し?」

「うん、そう。昔話であるじゃない?若者が罠で捕まっている鶴を助ける。その数日後、彼のもとへ若い娘がやってくる」

 凛太郎は祖母が存命だったときに話してくれた物語のことを思い出していた。それにしてもまた突拍子もなく言葉が出てきたなと苦笑する。こういうところはやはり双子なのかもしれない。

「それから二人は結婚するの。奥さんが作る織物が市場で売れに売れて、二人は次第に裕福になっていく。彼女は絶対に自分が織物を織っている姿を見ないでくださいと若者に言うの」

 妻が懇願するかのように真摯な瞳で夫を見つめる姿が目に浮かぶ。夫はいけないと思いつつ、切なる頼み事に対して逆らいたい思いが募っていく。

「若者はついに好奇心を抑えきれなくなって、襖からそっと彼女が織物を織っている姿を覗いてしまう。彼女は若者がかつて助けた鶴だった。正体を見られた鶴は、静かに若者の元から立ち去る」

 愛する妻が突然鶴に変わり、飛び立つ姿を想像した。残された男はさぞかし彼女の本当の姿を見てしまったことを後悔したことだろう。でも遅いのだ、後悔してからでは。失われた時間は、絶対に戻ってこない。

「うん、知ってる知ってる。でも急にどうしてその話を?」

「なんかもしかしたら優里自体が鶴だったのかもしれない。誰かに自分の本当の姿を見られてしまったから、この世界には居られなくなって姿を消してしまった」

 凛太郎と優奈は海岸線に沿って歩く。優奈は凛太郎の前を歩き、時折振り返っては屈託ない表情を浮かべて優しく微笑みかける。微かな風の音に混じって彼女が鼻歌を歌っているのが聞こえてくる。

 その曲は確か、THE HIGH-LOWSの『日曜日よりの使者』だった。随分懐かしい曲を口ずさむんだな、と凛太郎は思った。そういえば優里と付き合っていた折、彼女も同じ歌を歌っていた。

 ──なんだろう、この違和感は。何か大事なことを忘れているような気がしたが、すぐにはパッとその理由が浮かんでこなかった。鼻歌が途切れ、再び優奈は凛太郎の方に向き直り、言葉を発する。

「凛太郎くんは知ってると思うけど、優里は海へよく来てた。何か思い悩むことがあったときに海に来ると不思議と心が落ち着くんだってさ。それが理由で大学も海から近い場所を選んだくらいなんだよ」

「うん、知ってる。それで彼女と付き合っていた時初めて旅行した場所は沖縄だった。たまたま途中で出会った人がとても世話好きな人でね。色々よくしてくれたよ。今でも忘れられないのは──」

 思い出した。その旅で出会った男性が海で三線を披露してくれたのだ。どうして今まで忘れていたのだろう。

「そういえば、凛太郎くんは私の姉と別れることになったの?こんなこと──聴いていいのかわからないけど」

 優里と別れた理由。その時の出来事を思い出すと今でも胸がチクリと痛む。

「そうだね、まず話はその少し前に遡るんだけど──」と言って、凛太郎は静かに口を開いた。

 どこか先の見えない洞窟の中を少しずつ歩いているような幻想に囚われる。一体どこまで続いているのだろうか。

<第25夜へ続く>

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