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鮭おにぎりと海 #53

<前回のストーリー>

妹が突然高校を辞めると言い出して、慌てたのは父親と僕だった。あまりにも突然の告白で、理由を聞いてみると彼女は彼女で将来のことを考えての決断だったらしい。おまけに家庭が財政難で逼迫されているということも頭の中にあったらしい。

結局形だけは妹のことを高校に残るよう引き留めたものの、彼女の意思は決して揺るがなかった。そんな彼女のことを何とか思いとどまらせることができるのは、この世に一人しかいない。最終的に僕がLINEで、かつて我が家を出て行った勝手気ままな母親に連絡し、何とか妹を止まらせるよう懇願したのだった。

数日後、喫茶店で母親と待ち合わせた。いつの間にか再婚をしていた母親は、かつて我が家にいた時のようなどこかやつれた面影はなく、どこか溌剌としていた。着ている服も何だかとても垢抜けた感じがする。

渋々と言った感じで妹は待ち合わせ場所に現れる。どことなく仏頂面だった。

「どうしたの、ママ。もう私になんか興味ないくせしてどうしてまた現れたのよ。」

その言葉を言うか言い終わらないうちに、母親が席をすっと立って妹の右頬を目にも止まらぬ速さで叩いた。パチン、と小気味良い音が店内に響き渡る。突然の出来事で妹は平手で叩かれた頬に触って、ただ呆然としていた。

その瞬間、時間が止まったようだった。喫茶店にいる客は一体何があったのかと、興味津々で様子を見守っているようだった。

「あんた、私と同じようになりたいの?高校を辞める?そんなものはただの甘えよ。」

仁王立ちで妹の姿を見下ろす母親は、その時だけなぜだか神々しい存在に見えた。妹は目に涙を溜めて、必死に泣くまいと堪えているようだった。

「どの口がそんなこと言えるの。私たちをおいて勝手に出て行ったのはママじゃない。ママは逃げたんだよ。私のことを見捨てて。そのせいで、私がどれだけ嫌な思いしたかわかっているの。」

母親は少し寂しそうな顔をして、ふうと溜息をついた。

「だから忠告してるのよ。私と同じになるよ、って。急に叩いて悪かったわね。ほら、これで自分の涙拭きなさい。それから席、座んなさいよ。」

そう言って差し出したのは、一枚のハンカチ。綺麗にアイロン掛けされていた。それは昔、妹が母親の誕生日に送ったハンカチだった。

椅子に座った途端、妹は堰を切ったように泣き始めた。そして一通り涙をこぼした後で、すかさず母親が妹に話し掛ける。

「何があったの、麻李。せいちゃんは、あなたが早く社会人になりたいからだとか家計が苦しいだとかそんなことを言っていたけど、そんなことで高校を辞めようとしたわけじゃないでしょ。とりあえず何があったのか話してごらん。」

ちなみに、せいちゃんとは僕のことだ。

さっきと比べて態度を変えて、猫撫で声で妹に話し掛ける母親。これが飴と鞭か。妹は一通り涙をこぼしてスッキリしたのか、ぽつぽつと話し始めた。

「美織ちゃんが、私と話をしてくれなくなったの。」

それはよくある思春期特有の悩みだった。

美織ちゃんとは妹の親友らしい。サッカー部に容姿の整った男の子がいて、その子のことをカッコ良いと思っている美織ちゃんが妹にそのことを相談した。ところが、席の近い妹がいつもその男の子と仲良さそうに話す姿を見て、美織ちゃんが嫉妬したらしい。

いつも一緒だった親友と話ができなくて辛い日々を過ごしていたことに加え、家に帰っても口数の少ない父親と二人きり。どこか煮詰まってしまったのだと妹は言う。彼女が辞めたいと言い出したきっかけは、僕が家を出て一人暮らしを始めてしまったことにも原因があるのでなんだか居た堪れない気持ちになってしまった。

母親は妹が話している間、優しく相槌を打つのだった。

「麻李の気持ちも痛いほどわかる。親友に無視されて辛いわよね。でもあなたそれこそ現実から逃げようとしているわよ。高校を中退してどうする気?いろんな職を経験する、と言っても世の中そんなに甘くないわよ。」

再びどこか厳しい母親の顔つきになる。

「高校に通い続けなさい。今は辛いと思っていても、必ず夜明けは来るのよ。自分で道を切り開くのはその後でも遅くないわ。このままだと、ずっと真夜中のまま道を進むことになるのよ。」

妹はその言葉を聞いている間、項垂れたままだった。最終的にその場で母親に高校は辞めないことを約束させられて、妹と僕は家路についたのだった。

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