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いのち、巡り巡るもの

 生きる意味、人として生まれた意味、自分がここにいる意味。「自分」という存在について、折あるごとにその意味や意義といったものをぼんやり考え続けた時期がある。

 たぶん、一言で簡易的に表すことのできるものではなくて、きっと一生かけて考え続けるべきテーゼのような気がする。かつてデカルトは、「私は考える、ゆえに私はある」と言った。果たしてそれは、存在する意義と同義なのだろうか。

*

 先日、川上未映子さんの『夏物語』という本を読んだ。しばらく読んだ後の衝撃で言葉にするにも時間が必要な作品だった。ようやく思考停止が解けたので、少しずつ自分の言葉で語っていければと思う。

■ あらすじ

大阪の下町に生まれ育ち、東京で小説家として生きる38歳の夏子には「自分の子どもに会いたい」という願いが芽生えつつあった。パートナーなしの出産の方法を探るうち、精子提供で生まれて本当の父を捜す逢沢潤と出会い、心を寄せていく。

第一部 2008年夏
 主人公夏子の姉である巻子が、娘の緑子とともに東京へやってくる。巻子はいつからか自分と喋らなくなってしまった緑子との距離の測り方に思い悩み、そして豊胸手術を受けるかどうか迷っていた。

第二部 2016年夏〜2019年夏
 夏子はいつの頃からか「自分の子どもに会いたい」と思うようになるも、どうしても男性と肉体的な関係を持つことに抵抗を覚えてしまう。悩んだ夏子は、パートナーがいなくても子どもを授かる方法を模索する。

■ どこか虚ろな心持ち

その人が、どれくらいの貧乏だったかを知りたいときは、育った家の窓の数を尋ねるのがてっとりばやい。(p.8)

 主人公夏子とその姉の巻子は、幼少期あまり裕福とは言えない環境で生まれ育つ。そしてお互いがお互いを支え合って、生きてきた。夏子は自分自身のことを特別不幸だと思っていないけれど、きっと名状しがたい孤独を抱えて生きている、そんな人。

 暴力をふるう父親から命からがら逃げたが、大切な家族は一人また一人と減っていく。抗いようのない淋しさ。気が付けば、大人になって狭い部屋に一人だけ。その狭さとは裏腹に、洗濯物を乾かす場所はアパートの屋上だった。

 電車に乗っている痩せっぽちの女の子、かつての幼かった自分と重ね合わせている。

■ 幸せの正体は何なのか

きれいさとは、良さ。良さとは、幸せにつながるもの。幸せにはさまざまな定義があるだろうけれど、生きている人間はみんな、意識的にせよ無意識にせよ、自分にとっての、何かしらの幸せを求めている。(p.64)

 幸せとはいったいなんなのか。これは私たちが生きていく上で、永遠の命題だ。誰だって生まれてくる時はひとり。死にゆく時もひとり。そばに見守ってくれる人がいるとしても。
 
 その時は幸せだと思っていても、時を重ねるごとに幸せの形は変容する。いたちごっこのようなもので、掴んだと思ってもするりとすり抜けていく。

 主人公の夏子自身も、ずっと葛藤し続けていた。幸せの意味と。自分にとっての良さとは何かを。言葉が指の間をすり抜けていく。いつしか母親と喋らなくなってしまった緑子。彼女は自分のことを持て余している。

 夏子は、そんなもどかしい母娘を見て、自分にとっての良さとは子供を持つことだと考え至ったのかもしれない。

■ 子どもは親と環境を選べない

 私たちは、生まれてくるときにその環境と親を自らの意思で選ぶことができない。そして「生まれる」という事実に当たっても、当然ながら自分自身には決定権がない。

 生まれた瞬間、目の前にいるべきは自分のことを腹を痛めて産んでくれた母親で、そしてその母親にタネを授けた父親であって。でももしかしたらそんな常識は、人によっては打ち砕かれることだってある。

 そもそも何を持って私たちは自分の親を「自分の親」だと認識しているのだろうか。その認識の軸さえ、時にはぶれてしまう。

 姪の緑子とその母親の緑子が自分たちの思いを吐き出す前半とは打って変わり、後半はより物語は核心へと迫っていく。

■ 精子バンクを通して見えることは

愛とか、意味とか、人は自分が信じたいことを信じるためなら、他人の痛みや苦しみなんて、いくらでもないことにできる。(p.439)

 子供を作ることは、果たして正しいことなのだろうか。私たちの生きる意味のひとつは、これからも自分たちの種族を継続させることだと、思っていた。

 でも、それは本当にそうなのだろうか?子供を作るということは、もしかしたら自分のエゴなのではなかろうか。ある人はひとりで生きていくのが辛いから。ある人は誰かとの関係性を持続させるための、仲介役として。

 何が正しいのかもわからない。なんらかの事情により、精子バンクというものが用意されていて、そのシステムを使って子供を産むことが認められている。その仕組みを使うことは、果たして倫理に反していることなのか。それは単なる人の価値観の上に築き上げられたものなのでは?

 以前読んだ『消滅世界』という本の中では、これまでの愛の概念が覆される世界が描かれていた。正直私自身はこんな世界気持ち悪いし、生きた心地しないとも思ったけれど、それは今の私のものさしがそう認識するようインプットされているから。

 その時代ごとに、正しさの価値は変わる。

■ 家族の間を結ぶのは「血」縁か

 そういえば、前に是枝監督の『そして父になる』という作品で赤ちゃんの取り替え事件が扱われていた。一時期実際に問題になった事件だ。

 取り替えられたことを気づかずに数年が経っていて、取り替えられた子供に対してどう接したら良いかわからない父親。父親自身は、家族のつながりとは血のつながりがその証明だ、と信じていた。

 最後まで見終わった時に、考えさせられた。本当に人と人を家族たらしめるものは「血」縁だけなのか。私たちは感情があり、長いこと生きていれば情も湧く。その情の深さとは、血のつながりと同じくらい家族としての要素を兼ね備えているものではないのだろうか。

■ なんとなくのまとめ

 家族として認識する上では、私自身はどうしても血のつながりが先にきてしまう。そしてほとんどの人がもしかしたら、同じような共通認識を持っているかもしれない。でもそれは私を含めた大多数の思い込みであって、本当はそんなものあってないような、まやかしのような気もする。

 ひとつ確実に言えるのは、確かなつながりを感じる事ができる人がそばにいることによって、私は間違いなく救われているという事実。

*

 昔堂本剛さんが主演の「ホームドラマ!」というドラマを観たことを思い出した。バス事故によって、最愛の人を亡くした人同士が一つ屋根の下で暮らし、擬似家族として暮らしていく物語。共通の事故を通じて繋がりあった彼らは、確かにお互いがお互いを支え合って生きていたし、きっとそこには確かな人の関係性が築かれていたように私には見えた。

 生まれた時も死ぬ時も、私たちはひとりだ。その中でもきっと確かな繋がりを手繰り寄せて、今この時を過ごしているのかもしれない。




 ちなみにその最たる例が、お隣の中国文化なのかなと思ったりすることもある。もしかしたら、仁と義を重んじたヤクザだってそれに近い部分もあるのかも。血で兄弟の契りを結ぶわけだし。そう考えると、家族って奥が深いと思う今日この頃。きっと単純に理論だけでは割り切ることのできない世界だ。


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