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鮭おにぎりと海 #2

<前回のストーリー>

ある日、いつも無口な三角家の店主・欽(きん)さんが、こう言った。

「お前、海の外に行ったことはあるか?わかるか、この島以外の場所だよ。」

最初このおっさんが一体何を言いたいのかがよくわからなかった。とりあえず何か反応をしなければならないと思ったので、プルプルと首を横に振った。

この時ちょうど昼の書き入れ時がちょうどひと段落して、欽さんも誰かと話をしたい時間帯だったのだろう。俺の反応を見て、欽さんは言葉を続ける。

「俺は、一度だけあるんだ。このラーメン屋を大将から暖簾分けして貰ったのが大体30手前くらいの頃なんだがな。その前の、ちょうどお前より年齢が5歳くらい上の頃だっただろうか。その頃俺も血気盛んな年頃でな。」

欽さんは、自分の頭の上に巻いたタオルを外し、近くにあったオイル缶の上に腰掛ける。

「このまま外の世界を知らないまま死んでいくのは嫌だと思ったんだ。すると、その時たまたまやっていたテレビで、遠く離れた世界のことがやっていた。その一場面が頭から離れなくてな。きったない河でみんなが水浴びしているのよ。どうやらその河には死体も流れているらしい。でもみんな何だか幸せそうな顔をしているのよ。それが強烈に頭に残った。そこでな、」

欽さんは、ここでスッと一呼吸を置く。そして俄かに目を細めた。

「意を決してその場所に行ったのよ。行こうと決めた瞬間、急いでパスポートをとって、着の身着のまま住んでいた場所を飛び出した。向かった先はインドよ。どうやら西遊記のモデルになった場所らしい。それまで海外旅行をしなかった俺にとって、そしてそれまでラーメン一筋でがむしゃらに働いてきた俺にとって、自分でも予想外の行動だったわけよ。それほどまでに情動にかき立てられる何かを、きっとその国は持っていたんだろうな」

少しその話に興味が湧いてきて、思わず俺はラーメンの器を洗っている手を止めた。泡だらけでぬるぬるしている手が少し気持ち悪い。

「大体1週間くらいだろうか。その頃携帯電話も何も無かった時代だったからな。とりあえずよくわからないまま、ガイドブック片手に放浪したわけよ。それにしても何もかもが未知の空間だった。まだ年端もいかないガキが、俺の姿を見かけた途端口笛を吹いてな。どこからともなくおんなじような格好をしたガキがわらわら湧いて出てきて俺に金をせびるんだよ。その時俺も金がなかったから、仕方なく日本からたまたま持ってきた飴玉をあげると、嬉しそうな顔して帰ってくんだよ。その光景が忘れられなくてな。」

「何だか今の日本では考えられない光景ですね。道端で寝ているホームレスも決してそんなことはしないですよね。」

「だろう。でもな、不思議とガキどもの目はキラキラしてるんだよ。その目を見て、なんて希望に満ちた目をしてるんだろう、と思った。思えば俺が働き始めた頃、周りにいた大人たちもそんな目をしていたっけな。まあ、あれはキラキラというよりかはギラギラという感じだったが。」

「それで…結局、欽さんがテレビで見たその河にはたどり着くことができたんですか?」

「ん?そうだな…実を言うと辿り着けなかったんだよ、その時は。まあ半ば突発的な行動で、その河の名前もろくに知らなかったし、とりあえず行けば見られるという感覚だったんだよ、その時は。でもな、残念なことにその時俺喋れなかったんだよ、英語がな。」

そう言って欽さんは短く刈られた自分の頭を撫でた。少しジョリっという音が聞こえた、気がした。

「まあでもその出来事があって以来、これはこいつらに負けてられないぞ、と思うようになってな。それから日本に帰ってからはそれこそ今まで以上にがむしゃらに働いたわけよ。するとどうだ、今や自分の店まで持てるようになった。立派なもんだろう。」

欽さんは、体を揺すって短く笑った。欽さんのそのいつも愉快そうに笑う目は結構好きだったりする。

その時ちょうど、お客さんがひとり店の中に入ってきたのでそこで話は中断になった。「いらっしゃいませい」と俺は声を張り上げて、泡を洗い流して綺麗になったラーメンの丼を湯煎の中に入れた。

その時、店内にやって来たお客さんは女性客1名だった。なんだか珍しいこともあるものだ。

♣︎

その先の結末や欽さんが実際にそこで見たこと聞いたことについて、もっと話を聞きたかったのだが、結局その日以来もう一度インドの話を振っても欽さんは恥ずかしいのか、頑として話をしてくれることはなかった。

そんなふうに中途半端な説明をされたことで、ますます欽さんの人生を変えたと思われるインドに行きたくなった。ということで、大学2年生の夏にラーメン屋でコツコツ貯めたお金を使い、俺はインドへ行くという決断をしたのである。


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