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ショートショート:モスキート高橋

 テレビをつけると、最近暗いニュースばかりが報道されている。容姿端麗で博識そうなアナウンサーが、ここ連日過重労働による失踪が増えているということを、深刻そうな表情で伝えていた。僕自身は、そのニュースをどこか他人事のように、聞いている。

*

 まだ寒い日が続くちょうど冬と春の中間地点、僕は昨夜からある深刻な問題に悩まされていた。

 それは、季節外れの小さな吸血鬼。つまり、蚊のことである。蚊だといささか言いにくいので、モスキート高橋と呼ぶことにする。特に脈絡ない名前で申し訳ない。僕の大学のときの友人である高橋くんは、とても蚊に刺されやすいやつだった。ネーミングには、特に深い意味はない。

 モスキート高橋は、とある2月の冬の日に突如現れた。なんでこんな寒い時期に彼らが生きられるのか、皆目見当がつかない。

 昨夜は珍しく、ぐっすりと眠れそうな夜だったのに。

*

 僕の人生を左右する重大極まりない退屈な試験も終わり、ホッと一息ついて早々とベッドに潜る。それなのに、突如として僕の安眠を邪魔したのが、プーンという音とともに周囲を飛び交うモスキート高橋の存在だった。僕はその瞬間、一瞬耳を疑った。なぜこんな時期に蚊なんているのだろう。もしやこれまでずっと缶詰で部屋にこもって勉強していたせいで、幻聴が聞こえたのではなかろうか。

 なんとか無理やり思考を停止させ、何も聞こえない風を装って目を瞑った。きっと疲れているのだ。ところが、次の日の朝に起きて鏡の前に立つと、なんと見事に目の周りと鼻の先が腫れていた。やっぱりあれは幻聴ではなかったのである。

 試験の次の日は、会社の出社日だった。朝到着したと同時にクライアントからクレームが入る。僕はデザイン会社に勤めており、それなりに忙しい日々を過ごしていた。クライアントのクレームとは、どうも先方が依頼していた内容と僕の仕上げた成果物が一致していなかったというものだった。

 その日クライアントのクレーム対応で、一日潰れる羽目になる。まだまだ修正が終わりそうになかったので、一旦家に持ち帰ることにした。夜の10時くらいに、一人暮らしの部屋にたどり着く。

 しばらくぼーっとしていた。何気なく天井を見上げると、何やら異様に巨大化した黒い粒がくっついている。僕の血を吸ってすっかり大きくなったモスキート高橋だった。やはり幻ではなかったのだ。

 そのままだと僕の身長では届きそうになかったので、風呂場から椅子を持ってくる。まだその場所に、モスキート高橋は微動だにせず張り付いたままだった。モスキート高橋に狙いをつけ、勢いよく平手で天井を叩く。ところがどうやらすんでのところで当てが外れたようで、モスキート高橋をつぶし損ねた。それでもそれなりにダメージを負ったと思われる黒い粒は、そのまま床にはらりと落ちていった。

 最後の追い打ちをかけるべく、風呂椅子から降りてモスキート高橋の姿を探す。ところが、あれだけ大きな身なりをしていたにもかかわらずモスキート高橋は忽然と姿を消してしまったのである。最後にとどめを刺せなかったことが何とも悔やまれた。

*

 次の日の夜、久しぶりに大学の同窓会があった。そのときに、蚊によく刺されるという逸話を持つ、あの高橋くんも参加していた。彼は大学時代、一晩で30数箇所を刺されるという伝説を持っている。よっぽど彼の血が美味しいと見える。大学を卒業してから丸5年。大学在学当初はよく顔を合わせていたにもかかわらず、このごろはみんなご無沙汰だった。高橋くんは、前よりも心なしか痩せているような気がした。

「高橋くん、久しぶりじゃないか。前よりもなんだかやせた気がするけれど、気のせいかな。」

「ああ、本当かい。いや、最近仕事が忙しいせいか、満足に眠れない日が続いていてね。恥ずかしいことに、まともに夕飯を食べることができていなくてエナジードリンクばっかり飲んでいるんだ。」

 同窓会の会場となっていた居酒屋は全体的に暗い雰囲気のため気づかなかったが、確かに見ると目の下に隈ができているようだった。

「おや、大丈夫かい。それは災難だねえ。ここはひとつ、今日は美味しいものをたくさん食べて英気を養おうよ。」

「ああ、そうだね。エナジードリンクを飲んでいるおかげで、仕事をしている間は不思議となんでもできそうな気がしてくるんだけどね。」

高橋くんは、小さなため息を一つつく。

「それに最近、ようやく眠れたと思ってもすぐに目が覚めてしまうんだ。しかも近頃ちょっと不思議な夢を見るんだよ。自分が空を飛んでいる夢さ。ずっと会社のオフィスに籠りっぱなしだから、自分の願望がそのまま夢に現れているような気がしているよ。」

「へえ、空を飛ぶ夢。」

「うん、そうなんだ。最初のうちは、気持ちよく空を飛んでいる。おまけに食べるものもいたるところに転がっていて。無我夢中で食べるじゃない。そしてなんだか満ち足りた気持ちになって、ちょっと腰を落ち着けるんだ。すると、どこからともなく何か巨大なものに襲われて、その恐怖で夢から目が覚めるのさ。」

「ほう。」

 なんだか不思議な話だ。空を飛ぶという言葉によって、僕はなぜかモスキート高橋のことを思い出した。

 それから程なくして、高橋くんが突然失踪してしまったという話を、大学の同級生から聞いた。もしや働きすぎにより、現実から逃げ出してしまったのだろうか。

*

ーー某D製薬会社研究所内の出来事

 研究所の所長が、「橋本」というネームプレートをつけた所員を捕まえて新製品の開発状況について尋ねている。

「おい、例の新感覚エナジードリンク『モンスキー』の開発状況はどうなってるんだ。」

「はい、今のところ順調に開発は進んでおります。ただちょっと問題が一つ発生しまして…」

「どうしたんだ。」

「今回新たに配合した特殊アミノ酸『ユメミル』の副作用です。先日お話しした通り、『ユメミル』という成分は極度の安眠作用をもたらします。ですがその一方で、あまりに摂取しすぎると他の生物に憑依してしまう現象が起きることが被験者の実験により判明しました。」

「憑依だと?」

「はい、『ユメミル』は元々昔イタコやシャーマンが霊を降臨させるときに使用していた成分を抽出しております。今回の調査で、服用すると万能感をもたらすだけではなく、自分の魂が他の生物に乗り移るという研究結果が報告されました。」

「それは本当か?」

「私も最初俄には信じられませんでした。研究員の一人が、『ユメミル』を服用した被験者が眠りについた時の脳波を監視していると、長時間エナジードリンク『モンスキー』を飲んだ被験者の脳波が途切れてしまったそうです。慌てて原因を調査したところ、研究所内にいる蛙の脳波とその被験者の脳波が一致して、今回の事態が発覚しました。」

「そんな非科学的なことが…」

「私も俄には信じられませんでした。ただ原因を探ってみると、乗り移る対象に一定のルールがあることを発見しました。」

「なんだそれは。」

「どうやら乗り移るに当たっては、被験者の願望がキーとなっているようです。それから、乗り移る先の対象は小さな生物に限られます。ちなみに蛙に乗り移った被験者は、かつて棒高跳びで日本記録を打ち立てた人物で、最近記録がいまいち伸びずに苦しんでいたという報告を受けております。」

「関連性は、わかった。仮に憑依することが本当だとして、それは元に戻るのか。」

「はい。その憑依した人物が目を覚ませば、自動的に魂は元の人物の元へ戻ることがわかっております。」

「そうか、それを聞いて一安心だ。ちなみに、憑依した先でその生物の身に何か起こった場合はどうなる?」

「それがまだどうなるか実証できていないのです…」

「それはまずい。何か起こってからでは取り返しのつかないことになる。」

「は。引き続き実験を重ねて、安全性を高めるべく開発を進めてまいります。」

 橋本がその場を立ち去る。すると、今度は「津崎」というネームプレートをつけた若者が、所長の元へ青い顔をして走ってくる。

「所長、大変です!」

「どうした?」

「既存のエナジードリンクについているロット番号を調査したところ、ここ最近出荷した製品の中に、誤って現在開発中の『モンスキー』の原液が瓶詰めされてしまったことが発覚しました。」

「これはえらいことになったぞ…」

*

「それでは次のニュースです。今、会社員の過重労働が問題になっています。今年に入ってから昨年と比較するとおよそ倍以上の人たちが、過重労働の末に突如失踪してしまったという統計結果が出たことを調査機関が発表しました。政府としては事態を深刻に受け止め、直ちに状況を改善するべく、労働環境改善に関する法案を近く新たに国会の決議へかける予定です…」


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