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それから私はすべてを捨てた

 思えば、私にとってどこか知らない場所へ足を運ぶということは、この世の中で正常に息をすることと同義だったのだと今では理解できる。

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 もともと新しい”何か”を知ることに、貪欲だった。でも、最終的に外の世界へ赴くことを後押ししたのは、当時好きだった子の存在が大きい。当時私の高校ではグローバルコースというクラスがあって、その子もそのクラスに属していた。

 その子に少しでも近づきたくて、外国を旅するようになった。まあ言ってみれば、動機はかなり不純であるが、今振り返ってみるとなかなか悪くない選択だったように思う。

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■ 老人。

 その老人と出会ったのは、初めてタイに行った時のことだった。

 あれは海外へ行き始めて、3カ国目の場所だと記憶している。だんだん旅慣れしてきた頃合いだったが、まだまだ不安なことはたくさんあった。できる限りリスクは減らそうと、大きなバックパックにできる限りの荷物を入れた。重くて仕方なかったが、これで自分の体は鍛えられるし命も守れるしと思って耐えていたのである。

 歩いている途中であまりの重さに辟易し、たまたま目についたベンチに座って一休みした。すると、みすぼらしい身なりをした老人がどこからともなく近づいてくる。

「どこからやってきたんだい?」

「日本です。」

「ほう、中国人かと思ったよ。みんな顔が似ているから困ったもんだ。」

 老人はホッホと笑いながら、自分の顎を触って嬉しそうな顔をする。日本人からすれば、東南アジアの人たちもなかなか見分けにくいと思ったが、口にしないでいた。

「ところで、そんな大きな荷物背負って、どこへ行くんだ。」

「いえ、これで電車に乗ってバンパイン宮殿に行こうと思ってるんです。」

 ガイドブックをぎゅっと握りしめる。荷物の重みと気候の暑さで、私の頭はクラクラしていた。

「そうか。そんな風に荷物をたくさん持っているのは結構なことだね。だけど、あまりいろんな物を持ち過ぎると、いつか本当に大切なものがなんなのかわからなくなるよ。」

 先ほどと同じようにホッホと笑う。もしや、この老人私から何かもらおうとしているのか、と変な勘ぐりをする。知らない世界は怖い。

 しばらくすると、老人はどこか寂しそうな顔をして、そのままどこかへ行ってしまった。あまりにも頭がぼーっとするので、しばらく頭を下げてじっとしていた。

 その後老人の姿を探したが、もうどこにも見当たらなかった。

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それから、荷物を捨てた。

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 その後タイで不思議な老人と出会ってから、少し自分の中で変化が生じた。 

 本当に自分にとって大切なものは何だろうとぼんやり考えているうちに、私の大きなバックパックの中にはあまりにも不必要なものが入りすぎていることに気づいた。

 家へ帰ったときにふと荷物を整理してみると、暇つぶしのためのタブレットだとか、カップラーメンだとか、余分に入れた服だとか、旅で使わなかったものばかりが詰め込まれていた。

 その瞬間、たくさんの荷物を入れていたことが何だか馬鹿らしくなった。その後は必要最低限の衣類、2冊の小説、お金、カメラ、ガイドブック、携帯電話くらいしか入れないようになった。

 その次の旅に出かけたとき、不思議な現象に見舞われる。

 物理的な重さだけではなくて、いつもは不安になる自分の気持ちもだいぶ和らいでいることに気づく。恐怖も消えている。それはきっと、旅慣れしたことや荷物をいつもより少なくしたことだけが理由ではない気がした。

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それから、ガイドブックを捨てた。

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 最初は、本当の意味での旅が何なのか、わかっていなかった。

 海外旅行をするようになってしばらくは、とりあえず「地球の歩き方」に載っている観光地を巡って、答え合わせをした。それから帰国後、実際にこれ実物見たよ!と言って周りに自慢していたことを思い出す。今思うと、消し去りたい過去のひとつ。

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 ガイドブックを見て有名な観光地巡って写真を撮るのはいいけど、それって自分の中にきちんと吸収できているのだろうか。

 その考えに思い至ってから、これまで肩身はなさず持っていたガイドブックの類は持ち歩かないようになった。とりあえず地図だけ破り捨てて、自分の勘に従って、ただただ歩く。もし気になる観光地があれば、そこら辺の人に行き方を聞いて回った。案外、なんとかなるものだ。

それから、自分であることを捨てた。

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 私は、何者でもない自分になりたかった。日本にいると、たくさんのしがらみによって雁字搦めになる。自分の仕事における立ち位置とか、友人や家族との関係だとか、時々どうしようもなく惨めに感じる自分だとか。

 そんな現実の物事に囚われながら旅をするのは、正直つまらないとある時から思うようになった。それは不必要な荷物やガイドブックを持たなくなったことと大いに関係がある。そこに、自分の我が介在する必要性はどこにもない。

 旅に出ると、とりあえず自分の中から日本語を徹底して追い出した。日本語で喋るという概念を、自分の中から綺麗さっぱりなくす。携帯電話もローミングオフにして宿に行ってもWi-Fiにつなぐことをしない。(本当は携帯電話さえ、日本に置いていきたいくらい。)

 他の国にいる間だけは、その瞬間だけ自分ではない自分で物事を見ることができる。曇りのないその眼で、俯瞰的にその場の流れる時間と空気を見て、感じ取る。 

 日本に比べると、東南アジアなんてまだまだ発展途上で、みんな貧しい暮らしをしていることだろう、と昔は思っていた。実際に足を運んでみると、決してそんなことはないのだということがわかる。確かに日本ほど裕福な暮らしはしていないかもしれないが、彼らは日本人と比べてもよっぽど心が裕福だ。

 硬い頭で、世の中の物事を歪んで見ていないか。豊かさってなんだろう、真に裕福なのは誰か。とにかくいろいろ考えることが馬鹿らしくなってくる。

 旅に出ると、いつも気持ちは軽やかだ。時にはしんどい事態に見舞われることもあるが、まあ大抵のことは思いのほか何とかなる。

 タイで出会った老人の言葉を思い出してしまう。ああ、私は無駄なものをいろいろ背負いすぎていた。


 旅に出て、それから私はすべてを捨てた。



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