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ビロードの掟 第27夜

【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の二十八番目の物語です。

◆前回の物語

第五章 日曜日よりの使者(5)

 その日の夜、凜太郎と優里は凜太郎の部屋に設えられたテレビを観ていた。

 いつのときでもこの世界では、楽しい出来事と悲しい出来事が半々の確立で起こりうる。その日のニュースでは、3ヶ月前に起きた海外の観光地における邦人男性の落下事故に関する続報を伝えていた。

 優里が肉じゃがを作ってくれて、家庭的な味に飢えていた凜太郎は感謝しながら晩ご飯をゆっくり咀嚼する。優里は頬杖をつきながら、「この滝に落ちた人、私たちと同じ歳だ。人生って、何が起こるか分からないね」と呟く。

 凜太郎は肉じゃがと白飯を頬張り、それからキンキンに冷えたビールで流し込んだ。あくまで平静を装う形で口を開く。

「俺、部署異動することになったよ」

 なんてことない、という感じで凛太郎は優里に報告する。優里の良き相談相手が辞めてから1ヶ月程度経ち、沖縄旅行から帰ってきてからは半月ほどが経過していた。

「え、何よ、いきなり。突然どういうこと?」

 事の顛末を隠したところで勘の鋭い優里は察するだろう。だから正直に異動することになった出来事を話すことにした。

 凛太郎は3年目になって入ってきた新人たちの一人、三原麻理という女の子を教育係として請け負うことになった。

 その当時凛太郎は駆け出しのコンサルタントとしてプロジェクトに配属されていて、その下に配属されたばかりの三原がアシスタントとして入ることになる。

 凛太郎が入っていたプロジェクトの顧客はなかなかにクセが強い牛塚という男が窓口として立っていた。

 プロジェクトの品質管理に拘っており、下請け業者に関しては少しでも自分の意に沿わないと徹底的にいじめ抜く。

 凛太郎が新人の時にも、同じく洗礼と称して散々罵声を浴びせられた。幸い凛太郎自身は比較的ストレス耐性があったので、何を言われようとグッと堪えた。

 そして同じことが三原が入ってきた時にも行われた。何か細かいミスがあるたびに、たくさんの人がいる前で叱責をする。明らかにパワハラ行為で訴えられるほどの酷さだった。

 凛太郎は三原が顧客から叱られて萎縮する姿を見て、どこか優里の姿と重ね合わせた。あまりにも理不尽な振る舞い。立場が上というだけで何もかも許されていいのか。さりげなく凛太郎は三原のフォローに回ったが、それは逆に火に油を注ぐような行為だった。

 それが何回か続いた結果、溜まりかねた凛太郎は会議で他の人たちがいる前で、「もういいでしょう、牛塚さん。あなたあまりにも大人気がなさすぎです。自分の方が立場が上だからといって、勝手やりすぎですよ。何事にも限度があります」と語気荒く牛塚を咎めた。

 言い返されると思っていなかった牛塚は茹で蛸のように真っ赤になり、凛太郎を罵倒した。そしてその延長で会社にもクレームを入れられ、事態を鎮静化するために凛太郎の会社は彼を部署異動させた。

 その際事実確認という形で凛太郎の直属の上司から呼び出しを受け、その時に経緯を簡略に凛太郎は話した。だがそれは単なる確認で、決して凛太郎自身の処遇の改善とまではならなかった。

 一通りの出来事を聞き終えた優里はどこか思い詰めたような表情になった。

「ねえ、リンくん。あなたの行為はあまりにも一方的すぎる」

 まさか優里から否定的な態度をとられると思っていなかったので、凛太郎は少しパニックに陥った。

 ──三原をかばって石塚に対して意見したのは、どちらかというと彼女と優里の姿がダブったから。自分としては正義のヒーロー面したかったところもあるのかもしれない。

「リンくんは逆に三原さんの気持ちをきちんと汲んであげたの?そりゃあなたは半ば強制的にその牛塚さんに刃を向けることで事態の沈静化を図ったつもりかもしれないけど、それまで我慢してきた三原さんの気持ちはどうなるの?私は──」

 堪えきれなくなったかのように、優里の右目から涙が一筋溢れた。

「私は今でも瀧口さんが辞めてしまった日の出来事、とても……とても後悔してる。きっと三原さん自身もこの先、あなたが結果的に自分の社内での評価を下げてしまったことに対して、後悔を抱きながら生きていくことになるんだよ。──それってね、胸に刺さった棘みたいにずっと、ずっと取ることができないの」

 それから1ヶ月後、三原麻理は会社を辞めた。そして凛太郎はそのまま会社に残り続けた。その後、一切凛太郎は三原と連絡をとっていない。その頃から少しずつ凛太郎と優里の間で喧嘩が絶えなくなる。それから4月の桜が散り始めた頃──。

「リンくん、ごめん。私どうしてもリンくんが三原さんのためにしたことが自分の中で腑に落ちないの。もう一回全部リセットして、私も一からやり直したい」

 そう言って優里は、凛太郎との訣別に対する意思表示を示した。桜並木が並ぶ道を二人で歩いている間、凛太郎はどうにか関係の修復を図れないか思いを巡らしたが、彼女の意思は固く、てこでも動きそうになかった。優里は凛太郎のもとを去り、そして働いていた会社も辞めた。

****

 気がつけば東の空から形がまったく欠けていない、丸い月が少しずつ昇り始めていた。

 凛太郎が最後まで話をし終えた後、先頭を歩いていた優奈はくるりと踵を返してゆっくりと凛太郎の方へと歩いてくる。彼女は左目から一雫の涙をこぼれていた。

「リンくん、あなたはずっとそのことを抱えて生きてきたのね」

 海の音が遠くから聞こえてくるような錯覚を覚える。俺はそのことを抱えて生きてきたのだろうか、わからない。少なくとも周囲との関係性で誰よりも苦しんだのは優里だったはずだ。

 人の気持ちに対して敏感だった彼女は自分自身の中に巣食う気持ちの置き場に悩んで、苦しんでいた。凛太郎は良かれと思ってやったことだったが、そのことが逆に優奈自身を追い詰めてしまったきっかけになったのだろうか。

「大変……だったよね」

 優奈はぎゅっと凛太郎のことを優しく抱きしめた。海辺には二人以外にもちらほらと人の姿があったものの、不思議と彼らの存在は気にならなかった。

 その瞬間だけ、二人きりの世界が成立している。その時初めて、凛太郎の右目からも一雫の涙が溢れていることを自覚したのだった。

 ──ああ、俺は本当に彼女のことを愛していたんだな。世界中で誰よりも。

 彼女の体から仄かに石鹸の香りがした。凛太郎はなぜ自分が泣いているのかわからなかった。

 生きている間、人は別れと出会いを繰り返す。その度に、自分の中の感情を傾けるべき対象の順位もめまぐるしく変わる。何もかもが同じなんてことはあり得ない。

 波がただ穏やかに、寄せては引いてということを繰り返していた。

<第28夜へ続く>

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