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人との距離感の測り方

最近新たに読み始めた作家さんの一人に、柚木麻子さんという方がいる。もともとのきっかけは本屋大賞に選ばれた『本屋さんのダイアナ』という本だった。生まれも育ちも全く異なる二人の女の子が、一度はひょんなことから仲たがいをするも、最後お互いの存在の大切さに気付く、という流れである。

まず主人公の名前が大穴(ダイアナ)というところから衝撃的な入りである。そこからダイアナ自身の出生の秘密やもう一人の主人公である彩子の日々の生活における葛藤に至るまで、なんとも思春期特有の甘酸っぱい感じが読んでいて爽快だった。割とこう王道的な起承転結がはっきりしている小説はなんだかんだ言ってもとても読みやすい。

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この作品で味をしめた私が、次に手に取ったのが同じ作家さんが著した『ナイルパーチの女子会』という本だった。こちらの本もタイトルとは裏腹に、かなりどす黒いというか人間の本質を突いた作品でびっくりした。割と『本屋さんのダイアナ』は牧歌的な雰囲気を醸し出していたのに対し、『ナイルパーチの女子会』は読み終わった後になんだか嫌な汗が流れ出てくる。

30歳の志村栄利子は、実家から大手の総合商社に通勤しており、1000万円を超える年収を稼いでいる一方で、「おひょうのダメ奥さん日記」というタイトルのブログを愛読している。栄利子は、そのブログを書いている専業主婦の丸尾翔子と、ひょんなことから出会って急速に親しくなり、新たな友人ができたと感じる。翔子のほうも、友人がもてるようになったことを誇りに感じていた。しかし、翔子がブログの更新を何日間か滞らせたことがきっかけで、栄利子は翔子との適切な距離感を失ってしまい、ふたりの関係は思いもよらない方向へと進展していく。

序盤からだいたい100ページくらい超えたあたりから、これまでエリート街道をひたすら走ってきて、その容貌も他の人に比べると満ち足りていた栄利子の少しストーカーじみた感じに翔子は異常さを感じるようになってくる。

ただ栄利子自身はそうした自分の異常さに全く無頓着で、それだからこそ自分の意志を貫こうとする。傍からみたときに、いかに異常であるかに気付くのだが、彼女に限らず知らず知らずのうちになんとなく行き過ぎてしまうことってあるよな、、、と我がことにとらえて思わず考え込んでしまった。

矛盾しているが、苦手だからこそ、嫌悪するからこそ、同じ醜さを持っているに違いないからこそ、自分には動静が必要なのだ。
「どうして何かしなくちゃいけないって思うの?どうして暇なのがいけないの?あなたもそうだよ。旦那さんのお金で暮らそうと思えば暮らせるんでしょ?自分が取るに足りない存在なのを、そんなに認めたくないの?それともあなた、やりたいことでもあるの?別にいいんだよ。何もしなくても」

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それぞれの登場人物は、自分は普通だと思っていて、周りの人の一挙手一投足を指さしている。自分は正常で、あの人は規定から外れている。なんておぞましいのか。そういう人とはできる限り距離を置いておこう。

では果たして誰が自分の信頼に足りうる存在なのだろうか?そしてその人と付き合うことで自分は何にしがみつこうと思っているのか?そんなことをこの作品を読むともやもやしてしまう。永久に出口が見えてこない。

作品の中では、物語のキーパーツの一つとして、「東電OL殺人事件」というものがある。私は恥ずかしながらこの作品を読むまでこの事件のことを何も知らなかった。東電で異例の出世を果たした女性が、渋谷区のアパートで殺害されてしまった事件。人の闇を見た気がした。

そして自分自身、これまで自分がやってきたことが本当に普通の基準に当てはまるかどうかよくわからなかった。自分としては、何ら異常に見えなくても他の人からしたらどこか違う、という感覚。

でも多少なりとも世間のずれが生じてきてしまうのって、私は仕方がないと思う。体の左右のバランスが少しずつ歪んでくる感覚と似ているような気がする。

これまで自分が生きてきた環境と、自分がそこにどう感じたかによって次第に感覚に違いが生まれてくる。体のゆがみの場合は、お金に余裕がある人は整体に行ってその歪みを強制するのだろうけれど、自分の感覚の場合は環境によって培われてきたものだから一朝一夕で直せるものではない。

この世界で何よりも価値があるのは、共感だ、とも思う。

そうだ、共感だ。人はだれしも誰かに認めてもらいたいという欲求を多かれ少なかれ持っているような気がする。そう感じない人はよっぽど周りの人たちに自信がないか、自分の殻に閉じこもって出てこようとしない人。もしかしたらこんな風に思っている自分も、何かと比べて優越感に浸りたいだけなのかもしれない。

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実をいうと、前々からこの作品の読書感想文を前から書きたいかきたいと思っていたのだけれど、そもそも内容が内容だけに果たして自分が面白いと思った部分とそして恐ろしいと感じてしまった部分を正確に描写できるかどうか大いに不安だったので、そのまま書くことを放棄してしまっていた。今でもこれで伝えられているのかどうか自信がない。。。

「思い出は思い出として大切にとっておけばいいじゃない。たとえ幻だったとしても、楽しい時間を一瞬でも過ごせたんだから、それでいいじゃない。私には確認しようもないけど、もし、本当にその瞬間、あんたたちの心が通い合っていたとしたら、その夜は宝石みたいんなもんじゃない?取り戻せないからこそ、大切な時間だよ(以下略)」

人に嫌われることを恐れて何とか仲を保とうとする自分もいる。一方で自分の存在を否定されたくなくてもがく自分もいる。一体どちらが本当の自分なのだろう?いずれにせよ私は少なからず、少しでも昔味わった幸せな時間をいつまでも甘受していたいと思ってしまう。

そのためにはどうしたらよいのか、きちんと人との距離の測り方、そしてモノとの接し方について考えなければいけないのかもしれない。

この人との距離感の測り方については、自分の中でも永遠の課題なので都度あるごとにちょっと見直して自分なりの思いを吐き出していこう。

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