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ビロードの掟 第41夜

【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の四十二番目の物語です。

◆前回の物語

第七章 ビロードの掟(7) 

 熱も引き、重い体をなんとか動かしベッドから出る。無断欠勤となっていたために、直属の上司からもものすごい数の電話と留守番電話が来ていた。

『おい、相田。おまえ連絡もしないで何やってんだ。これを聞いたら掛け直せ』ちっと舌打ちの音がした後、録音がプツッと切れた。

 凛太郎の中には無断欠勤なんてやばいなこりゃという思いと、少し前から会社に対して抱いていた違和感が同時に胸の中に降って湧いた。僕は今まで世間体だなんだと結局そういったものにがんじがらめになっていて、抜け殻として生きていたのかもしれないな。

 見上げた天井が、心なしか狭く思えた。

 テレビをつけると一昔前に流行ったお笑い芸人が一発芸をやっている。

 チャンネルをザッピングしていると、歌番組に切り替わった。ちょうど凛太郎が好きなアーティストがパフォーマンスを披露しようとしていたところだった。そういえばこのアーティスト、優里も好きだって言ってたっけ。

 彼女が歌う歌は非常にノビがあり、聞いているだけで何か元気が出てくる気がする。この日彼女が歌っていた歌は、どちらかというとアップテンポのナンバーだった。初めて聴く新曲で、一体どんな歌なんだろうと興味津々でテレビを見ていた。

 そしてサビの途中で思わず凛太郎は画面に釘付けとなった。そのアーティストのバックダンサーとして踊っている女性に、とても見覚えがあったからだ。

──三原だ。

 テレビに映っていたのは、かつて凛太郎の下でアシスタントとして働いていた三原麻里だった。そうか、彼女は会社を辞めたあと彼女なりにいろんなことがあってきっとこの場所に立っているんだな。

 アーティストのパワフルな歌声に合わせて軽快に踊る三原は、会社ではまるで決して見たことのない生き生きとした表情をしていた。きっと彼女も会社では別のペルソナを被って生きていたのだろう。

 この時、凛太郎は胸がスカッとするのを感じた。そしてかつて会社で仲の良かった荻原のように、これから新しいことに挑戦してみるのも悪くないなと割と真剣に思っている。

 どこからか、ミャアという鳴き声を聞いた気がした。

*

 それから数日後、凛太郎はLINEで奈津美に連絡して今週の日曜日会うことはできないか、話したいことがあるんだと連絡した。すると奈津美からも『私も凛太郎に話したいことがある』と来た。

 その時すでに、凛太郎の中では妙な胸騒ぎのようなものを感じていた。これは3年連れ添ったことで培った二人の間に通じる特殊能力かもしれないが、この後起こる結末の結果を予想していたからかもしれない。

 実は奈津美と会うのは数週間ぶりだった。あの日渋谷へ一緒に遊びに行った時以来ということになる。

 凛太郎が交差点の向こう側に何を見出したのかということについては、奈津美からは深く聞いてこなかった。だがそれから彼女と会おうとしても、今忙しいからまた次会おうとはぐらかされていたのだ。

 待ち合わせ時間よりも5分前に到着した凛太郎は、なんとはなしに空を見上げた。雨は降っていないが、全体的に重い雲が垂れ下がっている。いつ降り出してもおかしくないような空模様だった。

「ごめん、待った?」

 現れた彼女は少しベージュがかったニットアンサンブルと、ピンクの緩やかなスカートを履いていた。春らしい服装だな、とぼんやり頭の中で考える。

「いや、俺も今着いたところだから大丈夫。お店、行こうか」

 見た目がシックな、最近流行りのブックカフェの中に入る。奈津美はなかなかの読書家で、昔から行きたいと言っていた場所だった。

「なんか久しぶりだね」

「うん、そうだね。凛太郎は元気にしてた?」

「まあ、ぼちぼちかな。こないだ傘忘れて雨の中走ったら熱出てちょっと苦しんだけど」

 その瞬間、奈津美は驚いた顔になり、「ごめん、全然知らなくて。言ってくれれば看病しに行ったのに」と言う。彼女の表情に、さっと影が走った。

「あ、うん。でも解熱剤飲んだら案外スッと引いたから大丈夫だった」

「そっか」

 二人が注文した料理と飲み物が運ばれてくる。しばらくお互い言葉を発さず、重たい時間が流れる。気まずい時の流れを断ち切るかの如く、どちらからともなく、口を開いた。

「あのさ」凛太郎と奈津美の言葉が重なって、ハッとした表情になり慌てて双方言葉を引っ込める。

「……奈津美からどうぞ」

「あ、……うん」奈津美は少し逡巡したような表情を浮かべた後、再び口火をきる。

「あのね、少し前から考えてた。──クリスマス・イヴくらいから」

「ああ」せっかくの恋人同士の夜、二人が険悪なムードになっていたことを思い出す。

「少しというよりずっと、かな。確かに凛太郎のいう通りあなたと彼女の間には何もなかったかもしれない。でも、私の中であの時見た光景がなんかこう、魚の骨を飲み込んだ時のように何か引っかかっていたの。それが折あるごとに澱となって重なっていった」

 凛太郎も奈津美の心情が理解できたような気がした。

 日々気がつかないうちに、人は身近な人に対して安らぎと信頼を知らず知らずのうちに求めて生きている。でも、それは逆もありうるのだ。少しずつ少しずつ信頼は目減りしていくこともありうる。彼女の強い決心を見てとった気がした。

 一方で、ホッとしていること自分がいることにも気づく。

 海に突如として出現した灯台。その向こう側の世界に行った時、凛太郎は不思議な感慨を覚えていた。ゆらゆらと景色が歪む。

 この世の全ての煩わしい物事から解放される感覚。あの場所は感情が蠢いていたけれど、同時に不必要な自分の感情も放り出された感覚に陥っていた。プツリプツリと何かが切れていく。

 だからこそ優里自身あの場所から抜け出せなくなっていた。いつか、別れる直前に彼女はすべてをもう一度リセットしたいと言っていた。

 何もかも一から始めて、まっさらな状態からこの生きている世界を見つめ直したかったのだろう。かくいう凛太郎も同じ気持ちになっていた。

「奈津美、君が考えていること俺の中でもぼんやりとわかる気がする。真に理解しているとはいえないだろうけど」

「うん」

「君は、俺と別れてその喉につっかえた魚の骨を取り除きたいんだね」

「なんか凛太郎、その表現詩的な感じだね」と言って、奈津美は涙袋に溜まった一雫をそっと拭った。下唇を軽く上げて、少し顔を右に傾ける。数秒おいて、再び言葉を紡ぐ。

「──そうかもしれない。今言えるのは、一旦この関係を白紙に戻したいの」

 間違いなく目の前にいる女性は、凜太郎にとってこの世で最も愛を傾けるべき相手である。これは過去形ではなく現在進行形。それでもひとつボタンを掛け違えることで、関係性はもろくも崩れ去ってしまうときがある。

 修復したい思いはあるけれど、凜太郎は元通りにすることが難しいことを悟った。フゥとひとつため息をついてゆっくりと口を開いた。感情を引きずらないように注意しながら。

「うん、わかった。今まで、ありがとう──。とても、楽しかった。満ち足りていた。幸せだった」

「その言い方、ずるい。しばらく私、引きずりそう」真っ赤に潤んだ目で、彼女はじっと凛太郎を見つめた。見つめられた側は、なぜか理由のないまま肩からするすると力が抜けていく。

 ひゅ……っと短く息を吸った。

「元気でね。またいつか、会えるといいね」

 こうして、凛太郎は奈津美と4年のピリオドを迎えた。お互いが幾ばくかの余韻を引きずって。

*

 今も、海を見ると思い出す。あの時海辺に佇んでいた彼女は綺麗だった。

 あれから何十年も経ち、果たして海を背に月の光を浴びていたのが優里なのか優奈なのか思い出せなくなる。

 あるいは、幻だったのかもしれない。確実にあの日の出来事をきっかけにして、自分自身の身の回りで変化が起きて僕も自分が生まれ変わったような気持ちになった。

 脳裏には、深紅のワンピース。彼女は、僕がこの世で二番目に愛した女性の、唯一無二の親友だった。

 僕はそれからしばらくして世界で一番大切な人と、別れを告げた。こうして今も一人だけど、不思議と後悔はない。

 今僕はただ、方位磁針も地図もない広い海の上を訳知り顔で漫然と漂い、航海しているのだ。

 いつか訪れる、彼女との再会を心待ちにしながら。

<最終夜へ続く>

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