鮭おにぎりと海 #7

<前回のストーリー>

気がつけば、俺の周りはみんな下ろし立ての黒い画一的なスーツに袖を通し、輝かしい将来を掴むために必死に動き回っていた。その姿は、側から見たら均一的で無機質に感じてひどく滑稽なように思えたし、一方で自力で新しい日常を手に入れようとしていることに対して焦りももちろん覚えた。

自分の中でぐらりと価値観が変わってしまったのは、間違いなく昨年の夏だった。今も時々顔を出す、三角家というラーメン屋。そこの店長であった欽さん、彼は普段は本当に店のマスコットのように黙々と働き笑いもしないのに、自分が過去インドへ行った時のことについては嬉々として話をしていたのがひどく印象的だったのだ。

結局彼が語る思い出エピソードにその時ひどく感銘を受け、最終的に欽さんと同じく半ば強行突破のような形でインドへ行ったのだった。その旅の中で見たもの聞いたものの余韻がしばらく後を引いた。その出来事をきっかけにして、俺はもう少しこの世の中をゆっくり見て回ってもいいのではないか、という気持ちになった。

そんなわけで、俺は親父とお袋に対して、大学に人より少し長く残りたいことを主張した。最初は当然ながら、特に父親は頑として俺の意見を聞き入れず、就職しろの一点張りだった。

それでも1週間にわたり粘り強く父親に対して自分の思いを貫き通した。最後は母親が仲介に入ってくれ、なんとか大学に居座ることの了承を得た。共働きである俺の両親は、一人息子である自分に対してなんだかんだ甘い。彼らの気持ちにすがってしまった俺は、もっと甘い人間だった。

♣︎

大学にもう少しいることを決めたのが、大学3年の冬。

それから3ヶ月ほど経過した4年目の春。俺は部員に混じってOBとして新入生の勧誘を行った。その際、声をかけたのが戸田青年である。新入生だと思って声をかけたのだが、なんと大学に入って2年目の春らしい。その割には何だか覇気のない青年だった。

名を「戸田生粋(せいすい)」というらしい。何だか変わった名前だ。そのまま読むと「きっすい」となるのだろうが、何となく「なまいき」くんと呼ぶようになった。

新入生の勧誘期間が終わり、新しい学校のカリキュラムが始まった頃、やたらと校舎のあちこちで「なまいきくん」をよく見かけるようになった。そのたびに俺は「なまいきくん」に対して、なんとはなしに声を掛ける。彼はぎこちない顔をしながらも、毎回小さく手を振ってくれた。律儀なやつだと、その時にはぼんやりと思っていた。

♣︎

ある日のこと、知り合いから合コンに誘われるもあと一人足りないのだという相談を受ける。誘ってもらった手前、頭数を揃えなければならないと手当たり次第に知人に声を掛けるのだが、尽く振られる。最終的に、その日もたまたま構内で見つけた「なまいきくん」に声をかけ、彼のはっきりとした了承を得ないまま、合コン会場となる居酒屋へ手を引っ張って行った。

元来頑張りすぎる性格なのか、彼は彼なりになんとか合コンの場を盛り上げようと必死になっている様子が見受けられた。そのままハイスピードで彼はお酒を飲み続け、合コンが終わりを告げる頃にはドロンとした目つきで、体がふらつくという窮地に彼は陥ってしまったのだ。

あまりにも不憫だったので、彼を俺の部屋に泊まらせてあげた。次の日に、三角家のラーメンを食べさせてやると何やら感動した目つきをしていた。欽さんの話によれば、俺の友人だということでおまけで霜降りのチャーシューをラーメンに入れてくれたらしい。粋な計らいをする人間だ。

以来、「なまいきくん」を大学で見かけるたびに、ランチに誘った。彼はどうやらなかなかお金に苦労している様子だったので、ランチに行くたびにささやかながらご馳走してあげた。ご馳走してあげたと言っても、学食なのでせいぜいワンコイン程度だが。彼はいたく恐縮しつつ、この御恩は一生忘れませんと怪しげな目つきで俺に感謝を述べるのだった。

♣︎

気がつけば俺も周囲に一緒にご飯を食べてくれる人がいなくなっていたので、週に2・3回は「なまいきくん」とご飯を食べた。アルバイトも学年も全く共通点はないにもかかわらず続いているなんて、つくづくおかしな関係だと思った。

俺はどちらかというと手当たり次第に興味を持ったことに対してはとことん突き詰めていくタイプに対して、彼は一つ一つの物事に興味が薄い。何を楽しみにしているのかと聞いてみると、こうやって神さんと話していることも楽しいですし、意外とアルバイトも気づきがあって楽しいんです、と晴々とした顔でのたまう。

こいつはつくづく自分とは違う人間で、相入れない世界に住んでいる。それにも関わらず、なんとなく気になってしまう自分がいて、なんだか悔しい気持ちにさせられるのであった。

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