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どのレジが正解ですか?レジスター・ジャスティス問題(思考実験ラボ)

宇多川さん(52歳、男性)は本屋のレジ前で一歩も動けなくなってしまいました。
目の前のレジには若くてキレイなアルバイトのお姉さん。
右隣には明るくて人なつっこそうなパートのおばちゃん。
左隣には店長らしき、仕事のできそうな同世代の男性。
いちばん奥には、研修中のバッチを下げて緊張している若いアルバイトのお兄さん。

どのレジも空いています。ではどのレジに行けばよいのでしょう?
他のお客さんが私の後ろに並びはじめました。誰か助けて!

部下の涙


宇多川さんが身動きをとれなくなってしまったのには理由があります。
この日、まじめで優秀な若手社員の今井さん(25歳、女性)が普段ならありえないような不注意から取引先に迷惑のかかるミスをしてしまいました。


今井さんはひどく落ち込んでいます。
あまりミスを責めたくないが、上司として何か言わなければならない。どうしたものか。
そもそもなぜあんなミスを?
そういえば、噂で今井さんには彼氏が2人いるとかなんとか。
まじめな今井さんからは想像できないが、複雑な事情でそんなことになって、思い悩んでいるのかもしれない。
責任感があるところは似ているし、信頼関係もできていると思った宇多川さんは、彼女が望むなら相談相手になってあげようと思いました。
そんなわけで、周囲に誰もいなくなったタイミングで、落ち込む今井さんにやさしく声をかけました。

「今井さん、プライベートでなにかあったの?」

今井さんは少し驚いたあとで宇多川さんを見つめたかと思うと、堰を切ったように泣きはじめてしまいました!
ハンカチで顔を隠しながら「すみません!すみません!」と繰り返し謝る今井さん。
泣き崩れる今井さん、立ち尽くす宇多川さん。
その異様な光景に、周囲の社員がゾロゾロと集まってきました。今井さんの同期の女子社員が疑いの目を向けています。
「あ、いや、私は、その・・・」
とまどう宇多川さんの視界に、部長の刺すようなまなざし。
今井さんは泣き止まぬまま「すみません。今日は早退させてください。事後処理は明日かならずやります!」
と言って帰っていきました。

宇多川さんの憂鬱

あれ?何かまずいこと言った?
今井さん、すごく泣いてた!プライベートを探るのはまずかった?
でもそんなたいしたことは言ってないのに。なんであんなに泣くの?
いや待てよ、よく考えたら、仕事のミスをプライベートのせいだと決めてかかるって、女性蔑視なんじゃないか!?私ってセクハラ上司!?
待て待て、しかもミスの原因は仕事上の問題で、思い当たること全然ないけど本当は上司の私のせいで、それなのに責任を部下になすりつけて、しかも恋愛のもつれのせいにさせてるって考えたら、あの涙と辻褄があうぞ!だとしたら私は最低な奴だな!私ってブラック企業のパワハラ上司!?
あれ、セクハラ?パワハラ?ってことは、リストラ?

宇多川さんは苦悩します。気遣いのつもりが、相手を傷つけているのかもしれません。
(実際のところ、今井さんは信頼している宇多川さんに優しく声をかけられたせいで、緊張の糸が切れてしまっただけでした。甘えたくても甘えられず、涙ながらに去るしかなかった今井さん。そんな彼女のプライベートに何があったのかは彼氏分裂問題を参照してください)

今井さんの涙、同僚の疑いの目、部長の刺すような視線。
悲しき中間管理職の宇多川さんは、会社帰りに本屋さんに立ち寄り、職場でのコミュニケーションに関する本を数冊購入することにしました。まじめです。
ですが悲劇的なことに、本を読む前に最大の難関がやってきました。
これが本日のお悩みです。もちろん、どのレジに並んでもハラスメント問題にはなりません。
しかし宇多川さんは、もう誰も傷つけたくないのです。

宇多川さんの選択肢と不安

①最短距離のお姉さん
普通に考えれば、いちばん近いレジに行けばいい。きっと昨日までの私ならそうしていたはずだ。
しかしそこにいるのは、今井さんを思わせる若くてキレイなお姉さん。
彼女は「うわぁ、このおじさん、私のところに来た。キモいんですけど」と思うかもしれない。
周囲の人は「うわぁ、このおじさん、若い女の子のレジを選んだよ。キモいんですけど」と思うかも。
隣のおばちゃん店員は「あぁ、やっぱり男っていくつになっても若い女が好きなのね」と怒りと悲しみを募らせるかも。


②右隣のおばちゃん
では右隣のおばちゃんがいいか。なんだか接客を楽しんでそうだし。
でもそれだと周囲の人に、「お姉さんはムリだからおばちゃんを狙っている」と思われるかもしれない。
それに、わざわざ遠いレジを選ばれたお姉さんは、自分が信用されていないと落ち込むかもしれない。
いや、反対にアルバイトだろうから仕事が少ない方が嬉しいか。いや、これも偏見か?

③左隣の店長らしきおじさん
ベテランだし、会計処理も一番スムーズに行きそうだな。
でも店長さんだったら他の業務があるから、レジはなるべく他の人に任せたいかな。
それに周囲からは女性を避けたと思われるかもしれない。
女性は仕事ができない。非正規労働は認めない。男性の方が仕事が早いに決まっているっていう偏見!?最悪じゃないか!

④いちばん遠くの研修中のお兄さん
緊張しているようだけど、彼は経験を積む必要があるから私がやさしくしてあげればお店のためになるはず。
でもやっぱり、女性の活躍を否定する悪しき中年男性って思われるかも。
それに彼はいちばん遠い自分のところには来ないと安心しているから、パニックを起こすかもしれない。パニックで失敗したら評価を下げてしまうかも。
わざわざ遠くの研修の子のレジに並ぶって、ただの嫌がらせおじさんじゃないか?

あぁ、ダメだ。私はもう一歩も動けない。
こうしている間にもお客さんが列をつくっていく。
みんなが不審な目で私を見る。
しかし、どこにも行けないのだ。もう二度と人を傷つけるハラスメントおじさんになりたくない。
こんなことなら、万引きして捕まったほうがよかった。

解説:レジスター・ジャスティス問題

日常は選択の連続です。
靴を右足から履くか、左足から履くかも選択です。
どちらでもいいことを選ぶ難しさについて、左右同じ距離に同じエサを置かれたロバは、どちらにいくか選べずに餓死してしまうという例え話(ビュリダンのロバ)があります。
厳密にいえば左右の選択も、利き手がどちらかとか、心臓がどちらかという点で全く同じとはいえません。それでも、決定的な差を見つけるのは難しい。日常生活で全ての選択を理屈で考えることなど不可能です。
ほとんどの選択は、選択をしているという自覚すらないまま行われています。

だからこそ、いちど考えてしまうとわからなくなり、何もできなくなってしまう。直感でやっていたことを冷静に分析しようとすると、わけがわからなくなる。
スポーツの世界にあるイップスもこれに近いかもしれません。

そして、自分一人の利害だけでもどの選択が正解かわからないのに、複数の人間が関わると話はとても複雑になります。
誰かが喜ぶと誰かが傷つく、そんなことばかりです。しかも他人の気持ちは簡単に想像できません。
考えはじめるとキリがない。
でも、考えないと、悪意がなくてもセクハラ、パワハラをしてしまうかもしれない。

真面目な中間管理職にはつらい時代です。

他人を傷つけながら学ぶということはなるべく避けたい。
傷つける前に理解を深めたい。そのために用意したのが今回の思考実験「レジスター・ジャスティス問題」です。
どのレジで会計することが正義なのか。判断の基準は、自分、選んだ店員、選ばれなかった店員、あるいはジェンダーのような公益性や、経済的利益など。いくらでも泥沼にはまれます。
日常の些細な状況から大きな問題を考えるための思考実験です。
おそらくこの思考実験にも答えはないでしょう(時代としての正解はあるかもしれませんが)。
だからこそ、あなたなりの答えを考えて、他の人の答えにも耳を傾けてみましょう。


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