見出し画像

『ホモセクシュアルな欲望』を読み解く vol.2

以下の〈vol.1〉の続きです。
引用した文章をササっと読むだけでも気付きが多いと思います。



第3章 家族・資本主義・アヌス

P79¶1
「資本主義というイデオロギーの最強の武器は、オイディプスをある社会的自然、ある心追を再構成させるがままにしておく。」

ホモセクシュアリティを弁明するために、古代ギリシア時代の文献をさかのぼることが多く、その迂回によって説明されうる。今となっては幻想的となった物事によって説明されうるしかないということは、「幻想的起源をさかのぼり語ることによってのみ、倒錯的再属領化はふさわしいのだ。」ということになってしまう。現代社会に対抗できるような、ホモセクシュアルな欲望を自由に語れる社会などは、もはや存在していないに等しい。

「資本主義による脱コード化の後に、ホモセクシュアルを統合する余地があるとすれば、それは唯一、倒錯的な自明の理、という形より他にはあり得ない。」


P79¶2
「家族は合法的な享楽の場である。」

家族という制度は、だんだんと頭の中へと移行していった。イデオロギーによる扇動は、徐々に自然的なものへと向かっていく。何が起源となっているのかという問いについては、「当たり前」という言葉をもって応答する他なくなる。享楽の場ということが、《結婚》ということではない。頭の中へ移行する「家族」とは、《ヘテロセクシュアルという排他的機能の破棄》というレベルではなく、資本主義による家族という機能の事実上の崩壊なのである。それにより、各個人による自由競争の規則が開始されていく。個人は家族を代償しないのであって、ささやかな家族ゲームを繰り広げているだけである。そもそも、家族とは何なのか?

「享楽の脱コード化に伴い、それは自明の理をも生み出す。」


P80¶2
家族という合法的な享楽の場における自由競争の外部への拡大によって、さまざまな享楽の脱コード化が実践される。それにより、性愛化が増大していくことになるが、この性愛化の増大によってホモセクシュアリティにとっての禁圧が内面化していく社会、という二律背反が解消されていく。この解消によって、ホモセクシュアルな欲望はますます表現が抑圧され、それによってその欲望は希求されていく。とくに、広告として巻き散らかされている「青少年の裸体」に関して言えば、これは商業用の違反の顕示に他ならない。社会の周辺にいる若者でさえ日々、無数の会話の中の《家族的意味作用》《人為的罪責感》を生むきっかけを、その無数の数だけ生んでいる。これにより、家族が頭の中に形成されつつ、ホモセクシュアルな欲望を外へ追いやる、非アンチノミーが実現する。 


P80¶3
「ホモセクシュアルな欲望を社会に顕示するのは倒錯とされる。この欲望そのものは、リビドーの無定形的性格を証言しているというのに。」

倒錯という、ある意味での普遍性が残存している限りにおいて、真に「正常者」となることは決してない。まず、「正常者」が正常者として存在しているのは、「異常者」が居るからである。その2者が不可分になればなるほど、その「正常者」の世界に存在する実在による否定、迫害が必ず生じてくる。この無定形なものこそが、今の社会にとって非常に破壊的なのである。なので、その破壊的なリビドーはまず、矯正され、回収に向かう解釈に身を委ねればならなくなることは、容易に想像ができる。なりそこないの市民階級という下級民族がいるからこそ、ブルジョワジーの諸価値が現れてくるのであるかのように、出来損ないの正常者は正常さを際立たせて、自責の念に駆られて個の正常さの諸価値を再び引き受けること、自己で表現すること、秩序へ迎合しに行くことへと繋がっていく。


P81¶1
「ホモセクシュアルな欲望は二つの側面、即ち《欲望》という側面と、《ホモセクシュアリティ》という側面を持っている。」

現代のLGBTの表像のように、一般と言われている正常者からしたら、自身の脅威ともなりうるホモセクシュアリティが「増大」しているように見える。そのようなイメージの作用というのは、この増大する同性愛者が持つ欲望を封じ込める必要性によって、作動し始める。理解や寛容が示されることは広がっていくかもしれないが、その生々しい欲望に対しては実存を再認することは、かなり難しいことであるように映り込む作用である、ということだ。そうなってしまえば、「社会関係から成る私たちの世界が大部分、ホモセクシュアリティな消化の上に築かれているということが本当になる。」また、「この社会=世界は他の何物にもまして、ホモセクシュアルな欲望を食い物にする。」代理・表像としての「LGBT」によって、このホモセクシュアルなリビドーが、様々な社会的秩序の上で許容されうる何かに変換される。

「これら代理・表像に挑むこと。道徳という衣装を払いのけたリビドー的エネルギーを探し求めること。これらがホモセクシュアリティに関して実行できるのは、社会的イデオロギーと欲望の力とがいかに対立し合うかを明るみに出すことによってだけだ。」

今のこの世界においては、解釈の入り込む余地が無いようにピッタリと合わさっている。そのような社会から、元の場所に戻ることが出来なくなっているのだ。


P82¶1
《ホモセクシュアルな欲望の二つの側面》
⇒昇華/超自我
⇒社会的不安の上昇/人格化されずコード化されない欲望の深淵への下降
昇華とは、社会体へ同性愛が浸透していくための唯一の経路のこと。
超自我とは、フロイトの心理学によって裏打ちされたパラノイア的オイディプス(精神医学)のこと。


シニフィアンとしてのファルスと昇華されたアヌス

P82¶1
「オイディプス化されたセクシュアリティの世界では…ある一つの器官、唯一の器官があるに過ぎない。」
「この性器こそ、父-母-私というオイディプスによる三角形の中心で、その三角形の三つの要素それぞれの場所を与える大文字の一者なのだ。」

大文字の一者というのが、この三者の役割における《最大公約数的な性器》ということであろうか。母というのは、最初に近親相姦的な欲情を働かせる性器としての役割、父というのは、その母を奪い取ろうとするリビドーを禁圧し去勢に関した不安を私に与え自我を芽生えさせる役割、そして私というのはその役割を担う役割としての役割。確固たる役割区分が明確になっている三者による、台本通りの役割を終結したものこそ、オイディプス化されたセクシュアリティの世界である。しかし、そもそも世界というの場所には、諸器官の間での自由な分岐や直接的な享楽の相互関係などが存在しているのではないだろうか。

P83¶1
「射精のない性行為が失敗として体験されるくらい、社会はファルス的だ。」

ファルス的享楽とは、まさに理想的自己イメージとしての享楽のことであり、その享楽とは自由なる分岐のない世界に存在しているものである。このファルス的享楽に準じて、ヘテロセクシュアリティは存在が許されているということである。女性がオルガスムス的享楽を感じていないことが悪であるというのは、男にとっては何も関係ないはずである。生産的セックスでなければ、男は自己嫌悪し、女は男を見損なうであろう。これは強制された享楽、ファルス的享楽他ならない。


P83¶2
「社会はファルス専制的だ。何故なら、社会での諸関係の総体はヒエラルキー様式をもとに構成され、こうして、この偉大なファルスというシニフィアンの超越性が顕示されるからである。」

ファルスというのは、わかりやすく言えば、小学校の教師であったり、将校であったり、会社の課長、部長であったりする。現存する社会において、男性がヒエラルキーの上部に存在する現状は、まさにオイディプスを大成功へと導いているのである。なによりもまず、あげた例の男性たちはみな、《父-ファルス》なのである。家族内で構成される三角形の「父」に対応する存在として、様々な社会的共同体に存在するヒエラルキー上部の男性たちは、その「父」と相似的な配分を感じさせる。父に禁圧され、社会ヒエラルキー上層にも禁圧されるこの構図は、近似している。身体というのは、ファルスの周りに中心化されるのである。


P83¶3
「あの偉大なシニフィアンのまわりに、ファルスの超越性、社会の組織化が存在するためには、個人化されオイディプス化された人格において、アヌスが私的なものとされなければならない。」

リビドーの流れについて考える。資本主義においては、欲望の流れとして、貨幣がその抽象を担った。貨幣の動きによって、その欲望が可視化される。空気の流れや風の流れを、稲穂の揺れによって確認できるように、貨幣にも欲望を可視化する力が存在する。それと同様に、私的なものとされるアヌスが、その私的化という流れを可視化する、ということである。そしてその私的化は、その顕在によって多くの正常者に阻害されうるのである。

「昇華されるより他に、アヌスにとって社会的な場所はあり得ない。…真に私的なものであり、人格の構成の場となっている。」
肛門期:フロイトの精神分析の性心理的発達の第2段階で、口唇期と男根期の中間に位置し、およそ1歳半から4歳までの時期のことをいう。肛門期は、排泄(はいせつ)や清潔のしつけが行われる時期であり、排泄物の保持と排泄に密接に結び付いた対象関係がつくられる。排泄物は、象徴的には贈り物と考えることができるので、排泄することは母親に贈り物をすることになり、排泄せずにためておくことは母親のしつけに反抗することになるからである。アブラハムによれば、肛門期は二つの時期に分けられ、前期は対象を排泄し、破壊することに喜びを感じる時期であり、後期は対象を保持し、所有することに喜びを感じる時期である。未熟な幼児にとって、排泄行為をコントロールすることは簡単なことではなく、失敗して母親の愛情を失う危険にさらされたり羞恥(しゅうち)心がおきたりする。母親の要請に応じてうまく排泄できるようになると、自分は母親を喜ばすことのできる贈り物を所有する価値ある存在であると感じるようになり、自律性を獲得することができる。トイレット・トレーニングがあまりに過酷であると、そこからおきてくる葛藤(かっとう)を解決するために吝嗇(りんしょく)、頑固、きちょうめんといった肛門性格がつくられる。


P84¶1
「肛門期は人格の構成期である、とフロイトは説明している。」

普通に考えれば肛門が人格を構成するというのは、意味不明のように聞こえる。しかしながら、フロイト的解釈でのアヌスが排泄に限られ、それが私的なものであるという了解が多く得られている現状では、その私的空間であるアヌスによって、「個人的で慎み深い私的人格」が構成され、また逆に、公的人格の構成は「ファルス」から生じるものである、ということができる。アヌスという私的空間においては、ペニスと大文字としてもファルスの恩恵を被っていない部分である。ペニスを顕示することは恥ずかしいことでもあり、光栄なことでもある。ペニスのイメージに裏付けられている大文字のファルスに関わるということであるから、「光栄に思う」のである。反対に、アヌスに関しては社会的関係のついには存在していない、そして緻密に個人を構成している空間であるため、社会と区別され存在している、私的なものである。アヌスを見せることはペニスと同様恥ずかしいことではあるが、基本的にポルノグラフティでも採用はほぼされないことから、社会と個人の区別がここでも垣間見ることができる。ペニスは、「虚勢不安」などで特別なイメージを保持している精神医学が、社会的秩序を無意識的に整えている。よって、「アヌスにはリビドー備給が過剰となる。というのも、社会的備給は回避させられるからだ。」


P85¶1
「結局、アヌスとは、社会的な性のシステムとこのシステムが欲望を統括する制圧がそこから生ずる、エネルギーの源泉のことなのだ。」

肛門の私的使用の機会が少なければ少ないほど、社会的肛門性は増していく。アヌスはどこまで行っても私的なものであるから、そのを切り抜けるのはあなたの意思にかかっている。ファルス的なものとアヌス的なものという欲望は、その2つを統括し調整するための制圧するためのエネルギーというのは、まさにこのアヌスから生じてくるものである。であれば、このアヌス的な欲望というものを、ただの排泄器官として見ていては、それはオイディプスの輪にはまり込むことになり、リビドーは矯正される。資本主義の大いなる脱コード化は、個人主義が進むことによってなされ、それはまさに個人が所有する貨幣やアヌス他ならない。あらゆる機関の機能はパラノイア的に存在し、変更が出来ないのであれば、その社会野の外に置かれた最初の器官であるアヌスを活用することこそ、リビドーのエネルギーの方向を変更し、顕示することも可能なのかもしれない。ペニスにとって射精と不可分であるのに対し、なぜアヌスにとって排泄が不可分となっているのか。よくよく考えてみると、当たり前な事であり、生理的な事であるためその現象自体はどうしようもできないかもしれない。しかし、射精を伴わないセックスが《失敗》と烙印が押されるのはあくまでの社会的に俯瞰して得られる感想に過ぎない。快楽は意味のないものとされ、何か目標がないと否定されうるという現実があるのである。射精には目的があり、目標があるということだ。アヌスの目標は排泄であり、そのアヌスへ逆流する行為というのは、何ら意味のない行為であり悪だ、という感想も、実に社会的領域の一俯瞰に過ぎない。


ホモセクシュアリティとアヌス

P86¶1~¶2
「そう、ホモセクシュアリティとは、まず第一に肛門的なホモセクシュアリティであり、いわゆる肛門性交のことなのだ。」

同性愛者では、アヌスこそが恒常的リビドーを内密に注ぐことのできる、唯一の器官である。ヘテロセクシュアルのポルノグラフィーでも、女性の尻がクローズアップされることがあるので、そうとも言えないのではないかという疑問があるかもしれないが、それは、「お尻や乳房は男が自分の手でそれを鷲掴みに出来る充満さを表現している」のであって公的な器官なのである。それと異なり、アヌスに関しては、内秘の個人的生産、排泄のための空虚な内奥の部位に留まるにすぎない。ホモセクシュアルの欲望自体は《肛門性-昇華》の形態において、疑問を付すことになるだろう。肛門とは昇華できない、してはならないものであるということである。それはつまり、ホモセクシュアルの欲望的使用を発動させ、拡大させる力があると、自己で分かっているからこそである。


P87¶1
「フィレンチは…『(中略)男性間の愛情の締め出しの原因が何かは充分解明されていない。考えられるのはここ数世紀間とりわけ非常に強化された清潔感、即ち肛門性愛の抑圧が、この締め出しのもっとも強力な動機を提供したということであろう。』」

男性間の間にある関係とはすなわち、「友情」などの形に必然的に帰結させられることになる。または、ある種の欲望的関係も考えられる。今となっては、利害関係によって形成されるホモソーシャル的集団とでも言えるかもしれない。それ以外の男性間での欲望は、この『肛門の清潔さ』がそれを禁止されたことに他ならない。肛門期に作られた肛門性格により、その禁止が無意識的に下されるという事実である。これはフロイトの実績でもある。

「村の男たちへの友情や重要な公的役割へと強制的に昇華させられていたホモセクシュアルなリビドーの再顕在化によってパラノイアが生じた。」

普段の生活では社会的秩序の一旦を担っていた頼りになる農夫が、次郎の手術によって医師にアヌスの使用方法について問われ、それによって正常者側から見たパラノイアが顕在化されてしまった例を語っている。このような患者に対してフィレンチは、肛門への執着心の軽減を行えば、このような無意識的とはいえ、粗野な倒錯自体を回避することも可能かもしれない、と。


P88¶1
「だから、肛門へのホモセクシュアルな欲望は、昇華された形に限って自らを顕在化させる。」

シュレーバーや上記した農夫のような例においては、「アヌスの欲望的機能の抑圧」によってのみ、様々な役割や所有物を維持するための手段になっているのである。アヌスを使用せず、痕跡さえなければ、いざアヌスを医師などのパラノイア的人物に見せることとなっても、決して告発するには値せず、同じような生活に戻ることが出来るだろう。

「アヌスを抑制することが所有を達成するための条件だ。」

排泄という機能が肛門に付されていることとはつまり、その排泄を我慢し、その排せつ物を他者への配慮に投影しながら見せないようにすることで肛門性格が形成されていくが、それが出来ない人物は、出来損ないか、「我を忘れてしまっている」ということとなる。「人間としての人格に危害を加えるという。」


P89¶1
「この肛門のオルガスムスが社会的存在を保持できるのは、ほんのわずか一瞬に過ぎない。罪悪感を与える禁圧の一時的消失の機を、自らのために巧みに利用して。」

アルベルトモル博士という人物の『性的倒錯』という著作の中で、ホモセクシュアルな傾向を持つ者は、幼少期に何かあるものをアヌスへ突っ込んでいる、というようなことを書いている。何かあるもの、というのはファルスの代理に他ならないが、その事実がある一定の程度で存在するものであれば、射精以外のオルガスムス、肛門におけるオルガスムスを認めるような何かが存在していることになる。


P89¶2
「精神分析の通俗化がファルスをあらゆる社会的イメージに共通のシニフィアンにする。」

アヌスは、まるで自分の土台であるかのように、深く隠されてしまっている。しかしながら、ファルスのイメージの根源であるペニスに関しては、すでに社会的イメージの共通のシニフィアンにさせられてしまっている。これはまさに精神医学の通俗化の成果である。自分のものである、親指だったり、アヌスだったりするものというのは、自分のものだからこそ、大切に扱わなければいけない。そして、その扱いに関した使用価値は、使わずにとっておけ、と命じるのである。


P90¶1
「アヌスが存在できるのは、社会的に高められたか、個人的にさげすまされたかの、いずれかだけなのだ。」

アヌス、要するにホモセクシュアルな欲望を注ぎ込める唯一の器官が存在するためには、その存在自体を内密にしておくために、社会的昇華を実践しなければならない。実践しなくとも、もはや幼少期から叩き込まれた性愛に関した無意識的教育によって、それはなされていくこととなるのであるが。または、そのアヌスの存在が蔑まされることによってのみ、相対化されうるということである。この観点から言えば、同性愛者は女性と同じ運命を被ることとなる。どのようにしても一個体としてすっきりと存在することが出来ない。これはつまり、自己同一性の喪失が約束されていることに他ならない。その喪失は、ホモセクシュアリティに無理強いをするような、倒錯的再属領化、つまりはヘテロセクシュアルな社会に強制された形で存在することしかできない、ということである。


ホモセクシュアリティと自己同一性

P91¶1
「より正確に記せば、彼らは動揺した同一性を享受していると言えよう。」

彼ら=ホモセクシュアルと女性の2者のこと。


P91¶2
「ファルスは同一性の唯一の配達人だ。昇華された以外にアヌスを社会的に使用すると、同一性喪失の危険に晒されることになる。背中の方から見れば、私たちは皆、女だ。」

ファルスとは父親のことであり、男性同一性のある理想的イメージを持つ知と親のことである。近親相姦欲求を押さえ、去勢の不安に晒すことで欲求を抑圧する。そこ家庭の中で、超自我が作られていくというフロイト精神分析の枠での思考法である。アヌスというものがまさに当本人そのものを表す唯一の器官であり、それを社会的に使用することで、自分の自己同一性を問われることにつながるということであろう。そして、その問われる同一性というのは、徹底的に非社会的なものであると判断され、同一性というものは喪失に追いやられ、矯正される。女性と同様であると論ずるのは、女性から見れば差別的発言に映るかもしれない。しかしながら、それは今の時点での判断でしかなく、当時に当てはめて考えることはできない。性的同一性というのは、オイディプス的セクシュアリティが存在する社会的ファルスによって後天的に喪失させられるのである。


P92¶1
「堅固に、性的同一性の条件は類似と差異、つまりナルシシズムとヘテロセクシュアリティという二重の確実性を留めている。」

自己への執着をナルシシズムといい、現代では自己愛性パーソナリティ障害という病理となっている。何となにの類似になっているのかということがいまいち理解できずにいる。


P93¶1
「男根期は同一性の段階だ。もし、お前が男の子なら、お前は女の子と関係を持つだろう。お前のアヌスは、自分の為、気を付けて大事に取っておきなさい。性的同一性はまた、主人の世界に属している確信、あるいはそこから排除されるのではないかという恐れでもある。」
男根期:フロイトによればこの時期の小児性欲の中心は性器(ペニス・クリトリス)である。子供は自分の器官の性器としての役割を知り、男女の性的違いに気づいていく(精通がある、自慰をするなど)。この気付きには個々人によって、また男児と女児で発達に違いが出てくる。時期については諸説あるが、おおむね3歳から6歳頃までとされる。またこの時期にエディプス・コンプレックスが形成される。男根期はエディプス期とも呼ばれ、重なっているとも考えられるが、この点に関しては論者によっては違いがある。いずれにしろペニスにリビドーが集中する時期を指している。
外性器を持つ男児と内性器を持つ女児とでは、この時期の生育が後天的な性格へ与える影響には差異があるとされる。女児は男根が無いことに対する違和感を覚え、男児は男根の勃起により性差を自覚する。そうした自覚から性的好奇心に目覚め、お医者さんごっこなどの行為も見られる。女児には精通のようなダイナミックな性機能の発現が初潮まで無いこと、性器の勃起の自覚が女児より男児に顕著なため、女児に限って性的な快楽に目覚めることがこの男根期への移行とされることもある。
この男根期にペニスやクリトリスを通して形成されるリビドー(部分欲動)は、エディプスコンプレックスと呼ばれる両親との三角関係によって、去勢されるか、されないかの葛藤を経験し、その結果として彼のリビドーは抑圧される。自我や超自我、エスが形成されるという重要な時期として考えられる。

フロイトの幼児の成長期区分の系列から逸脱してしまったものこそが、ホモセクシュアリティをもつ成人に化けるのである。この系列に遵守して巣立ったとされる隠されたホモセクシュアルな人々は、ヘテロセクシュアルな規範の中で手に入れた地位や名声を、そのリビドーの不安定さと脆弱さ、または犯罪性という性質との狭間で揺れ動くのである。名もなき器官というのは、まさにこの系列において順序良く形成された欲望体系なのである。その体系は普遍性を帯び、それを保持したマジョリティから、少しでもこの欲望体系型逸脱したような人物が面前に現れると、それが斜線のひいた主体として存在することで、またに異常者として実在してしまう帰結に陥る。


P94¶1~2
「あらゆるホモセクシュアリティはアヌスに結び付けられる。」

全てのホモセクシュアリティがアヌスに結び付かず、例外的であるにしても、実際はアヌスに結び付き、同一性を保つ他ないだろうという見解である。そして、アヌスの欲望的使用が無くてはならない段階になると、もはや現在存在している社会から完全に逸脱した私であり、普段の私ではなくなってしまうということだ。


P94¶3
「ところで、欲望の流れへ参入するため、無理強いされた私人化から、アヌスという器官が切り離された際、ファルスのシニフィアン‐弁別的機能は打撃を受ける。集合的でしかもリビドー的にアヌスへ再備給するということは、その分だけ偉大なファルスというシニフィアンを無力化することになる。」

ファルスという記号は、男性の自己理想的なイメージ、いわゆる大きいペニスを表像する。それはすなわち、現時点における性的な欲望への参入が認められていることを示す。さらに言えば、過去に去勢の不安にさらされている経験をもつ(ということにする)ペニスという存在は、非常に大きい自我を形成しているということになる。しかしながら、アヌスは肛門期において、私物化され、内密に保持されるものでしかない。今一度、その内密性を解放し、欲望の流れに参入するような社会的体制になっていたらどうなっていただろうか。そうなれば、ファルスというシニフィアンの偉大性は崩壊する。さらに、このファルスによって体系化された社会という大きなヒエラルキーや、家族内でのヒエラルキーがファルスによって支配的統治下に置かれていることからも、この脱昇華方法は早々に崩れ去るものでしかないのである。

「より引き受け難い欲望の働きこそ、まさしくアヌスへと向けられたそれなのである。」


続く。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?