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定本 徳川家康

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本多隆成氏著作の「定本 徳川家康」。天下人・徳川家康の生涯を描いた作品です。出典も多く、分かりやすいと思い、購入しました。  波乱の人生を送った徳川家康を紐解いていきます。
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#徳川家康

Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(3)後半

武田信玄の得意としている戦法は、敵をおびき寄せて然るべき場所で迎え撃つ、というもの。この…

だい
3か月前
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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(3)前半

三方ヶ原の合戦情報に敏感な信長公も寝耳に水の出来事だったか。もしくは、素早い信玄の侵攻に…

だい
5か月前
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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(2)

武田軍の侵攻ルート信玄が山家三方衆にあてた書状を紹介する。 (要約) 期日どおり、首尾よ…

だい
5か月前
7

Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(1)

甲・相同盟の復活武田信玄公も晩年に差し掛かる頃。今川討伐の一件もあり、”家康あなどれぬ”…

だい
5か月前
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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #2 今川氏の滅亡と駿河・遠江(5)

元亀元年の家康 家康はこの時28歳。血気盛んな時期である。 かなり多くの数の兵が動員され…

だい
5か月前
5

Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #2 今川氏の滅亡と駿河・遠江(4)

信玄の第二次駿河侵攻まだ、徳川家康が今川氏真と和睦を結ぶ前の出来事。 第一次駿河侵攻で北…

だい
5か月前
7

Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #2 今川氏の滅亡と駿河・遠江(3)

今川氏の滅亡これ以上の損害を出したくない家康は、氏真との和睦の道を探った。 家康は以前、今川氏に仕えていた。その時の縁があるので、今川の領土を家康に渡した方が、統治もスムーズに行くだろう、ということだった。 家康と氏真の立場が完全に逆転していることが伺える。 北条と今川も、もとはといえば今川の客将が北条だった。救援のために駆け付けた北条氏からすると、信頼のならない武田氏よりも、徳川氏に統治をしてもらった方が、今川領が安心するだろう、と考えたこと、今川氏を無下にはしないだろ

Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #2 今川氏の滅亡と駿河・遠江(2)

信玄の駿府撤退駿河に侵攻した信玄だったが、窮地に立たされていた。 北条氏の素早い進軍、北…

だい
6か月前
4

Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #2 今川氏の滅亡と駿河・遠江(1)

家康の掛川城攻め永禄12年正月から家康勢、今川氏真が籠る掛川城を本格的に侵攻開始。 今川…

だい
6か月前
5

Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #1 信玄・家康の今川領侵攻(1)~(4)

武田氏の動向、三国同盟の破綻この頃、甲相駿三国同盟にヒビが入った。 今川義元が桶狭間の戦…

だい
1年前
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Ⅰ 三河支配の成立 #3 三河一向一揆の展開(2)

一揆の勃発と要因三河一向一揆が起こったのは永禄6年(1563年)秋のこと。 翌年のはじめ…

だい
1年前
3

Ⅰ 三河支配の成立 #3 三河一向一揆の展開(1)

三河の一向宗一向一揆とは、「一向宗」=浄土真宗-特に本願寺派の門徒たちのことを指す。 1…

だい
1年前
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Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(6)

元康から家康へ 永禄4年(1561年)4月から始まった東三河侵攻は、永禄5年(1562年…

だい
1年前
4

Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(5)

将軍義輝への献馬この御内書は永禄4年(1561)のもの。 この御内書や関連文書によると、この年の初めに将軍義輝は尾張の信長、三河の元康、駿河の氏真らに早道馬を所望したようである。 早道馬とは、飛脚に使用する馬のこと。 元康はこの要請に応え、ただちに「嵐鹿毛」と名付けた馬を贈った。 宛先の誓願寺泰翁とは、当時の京の誓願寺の住職。朝廷や幕府とも関わりが深かった。三河岡崎の出身と言われ、松平氏と京を結ぶ重要な役割を果たしていたとされる。 早道馬は、氏真は6月、信長は12月に献