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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #2 今川氏の滅亡と駿河・遠江(1)

家康の掛川城攻め

永禄12年正月から家康勢、今川氏真が籠る掛川城を本格的に侵攻開始。

正月16日、(家康が)掛川城の周りに砦を築く。
青田山に小笠原氏助ら率いる高天神衆
仁藤山に岡崎衆
金丸山に久野宗能一党
17日には天王山に家康が陣を敷いた。
小笠原氏・久野氏は新たに服属したもので、そういった者は先鋒を務めるのが習わし。
しかし、久野氏内部に内紛が発生し、宗能の弟宗益を殺し、叔父の宗政・采女らを追放するということがあった。

松平記

今川氏真の感状によれば、20日に掛川天王寺、21日に天王小路で合戦があったとある。(それぞれ安藤九右衛門、西郷監物丞へ向けた感状)

23日には掛川天王山で激戦。今川方に多数の死者が出た。

家康正月23日、掛川へ向かい、天王山にて家康衆と氏真合戦あり。
初度は打ち負け、28日の合戦では氏真衆が打ち負ける

北条記

とあり、家康方の一方的な攻勢ということにはならなかった。

越後の上杉輝虎との接触はこの頃から始まっている。

2月18日付の重臣・河田長親宛の家康書状および石川家成の副状が残されている。

その書状では、遠州への出馬と遠州諸士の多くが服属したこと
まもなく掛川城を落とすであろうということが書かれていた。

ところが、そう簡単にはいかず、3月5日に本田忠勝・松平伊忠が攻めたが、落ちなかった。

家康は氏真との和睦の道を探ることになった。

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