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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(3)前半

三方ヶ原の合戦

美濃岩村城への調略、遠江・三河への侵攻という重大な信玄の軍事行動について信長は、事が起こるまで全く察知していなかった。

情報に敏感な信長公も寝耳に水の出来事だったか。もしくは、素早い信玄の侵攻に対して、少し出遅れてしまった感じがある。

10月5日付けで信玄に宛てた書状では、「甲越和与」(信玄と謙信の和睦)に調停しているとしているが、信玄はその以前である3日にすでに出馬していたのである。
これまでの友好関係を踏みにじられたと激怒した信長は、11月20日付で謙信に宛てた書状で、信玄を激しく非難している。

信玄のために動いていた信長の努力を踏みにじる対応に、激怒した。

信玄の所行は前代未聞の無道さであり、侍の道理を知らず、都鄙(とひ)の嘲弄を顧みないもので、恨み骨髄である。今後は未来永劫に渡り、信玄とは二度と相通ずることはない、としている。

同じ書状の中で、信玄は遠州の家康のもとへ加勢の衆を送ったと言われる。
平手汎秀・佐久間信盛・水野信元ら3000人余りであったが、信玄も先の11月19日付条目で、信長が「引間へ3000余りの加勢を送った」としてこの事実を把握していた。

信玄は、織田信長の動きをも敏感に把握していた。
文章だけで見る限りは、武田信玄の方が一枚上手に見える。

信玄は攻略した二俣城の普請を終えると、12月22日の早朝、軍勢を率いて浜松城方面へと南下した。ところが、浜松城へは向かわず、大菩薩(欠下平)辺りから西に転じて三方ヶ原台地に上がり、そのまま三河へ向かう構えを見せた。

有名な浜松城通り過ぎのエピソードがここで出てきた。

浜松城にいた家康は織田方の加勢も含めた1万あまりの軍勢で敢然として打って出て、25,000ともいわれる武田軍を追撃しようとした。

「三河物語」によれば重臣たちが諫めるのを振り切って、家康は次のように言ったという。
その儀は何ともあれ、多勢にて我が屋敷の背戸をふみきりて通らんに、内にありながら出て咎めるもの哉あらん。負くればとて、出てとがむべし。そのごとく、我が国を踏み切りて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉。とかく、合戦をせずしてはおくまじき。陣は多勢・無勢にはよるべからず。天道次第。

この言葉、なんとなく織田信長が桶狭間合戦の際に出陣の前に発した言葉に似ている感じがする。
”多勢・無勢によるべからず。天道次第。”もしかしたら、信長との会話や様子を見て、そこから学んだ姿勢なのかもしれない。

こうして、武田・徳川両軍による三方ヶ原の合戦となった。

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