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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #2 今川氏の滅亡と駿河・遠江(3)

今川氏の滅亡

掛川城を攻めあぐねた家康は、「松平記」によると3月8日に今川家臣・小倉勝久に対し和睦の申し入れを行った。
今川氏とのかつての縁を説き、遠江を家康が取らなければ、必ず信玄がとる事になる。それよりは家康に下され和談となれば、北条氏との申し合わせて信玄を追い払い、氏真を駿府に戻そう、というものであった。

これ以上の損害を出したくない家康は、氏真との和睦の道を探った。
家康は以前、今川氏に仕えていた。その時の縁があるので、今川の領土を家康に渡した方が、統治もスムーズに行くだろう、ということだった。

家康と氏真の立場が完全に逆転していることが伺える。

氏真も納得したということで、これ以後、和議の話が進むことになった。北条氏康もこれを歓迎し、5月1日には酒井忠次宛てに、家康と氏真との和議が成就することを念願している

北条と今川も、もとはといえば今川の客将が北条だった。救援のために駆け付けた北条氏からすると、信頼のならない武田氏よりも、徳川氏に統治をしてもらった方が、今川領が安心するだろう、と考えたこと、今川氏を無下にはしないだろう、という思いもあったかもしれない。

他方で、家康は遠州の今川家臣への懐柔も積極的に行っていった。
4月8日、犬居城の天野藤秀に起請文を書き、本知行(領土)を安堵する事、奥山氏や家山の鱸(すずき)氏の領土を安堵する事、掛川の人質に別条がないことを誓っている。(4月13日、左記のとおり安堵することになった)
(中略)5月6日、氏真は掛川城を開城し、義父氏康からの迎えの兵とともに去っていった。家康も警固のために、松平家忠に命じて一行を送らせた。

こうして、掛川城の争いは終焉を迎える。今川家、ここに滅亡となった。

これに対して、憤慨したのは武田氏であった。

窮地に陥っていた信玄は、何とかこれを阻止しようとした。
3月23日、信長に働きかけ、両者の和議の動きは不審であるとし、信長はどう考えているのか、と詰問している。
4月7日、家康に対し、掛川城近辺に砦を築き、追い詰めていくことが肝要だ、と迫るとともに、甲・越和与の進展や佐竹・里美・宇都宮氏など関東諸将の小田原攻めを示唆して、家康の動きをけん制した。

しかし、家康はこの動きに動じず、上記のとおり和議を進めたのである。

和議が成立すれば、信玄の立場は一層危険なことになるため、4月24日、駿府から撤退した。

5月23日、再び信長に働きかけた。
掛川落城ということならば、氏真を生害(せいがい、殺すこと)するか、そうでなければ三河・尾張間にでも送るべきところを北条方と手を打ち、氏真をはじめとする籠城衆を駿河へ通すとは、思いもよらないことだ。
氏真や氏康父子と和議をしないということは、家康の2月の血判起請文にも明らかなことで、これを信長はどう考えるのか。
と、家康に圧力をかけるように迫った。

信長は、信玄からの起請文に対して、家康に働きかけることはなかった。
しかし、この出来事のせいで、家康は、信玄から深い恨みを買ったであろう。

開城した掛川城には、家康は石川家成を入れて守備させることとした。
そのため、西三河諸士を統括する旗頭の役割は、家成の甥である石川数正が受け継ぐことになった。
こうして、家康は遠江一国をほぼ手中にしたのであった。

永禄12年、1569年。この時家康は26歳。信玄は48歳。

氏真とは和議を結ばない、と信玄と約束を交わしたにも関わらず、したたかに裏切った家康。
若気の至りか、強敵を怒らせる結果となってしまった。

この後に三方ヶ原の戦いで信玄に敗れ、あわや落命の危機にまで追いつめられることを考えると、この時の運び方を誤っていたのかな、と思う。

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