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Ⅰ 三河支配の成立 #3 三河一向一揆の展開(2)

一揆の勃発と要因

三河一向一揆が起こったのは永禄6年(1563年)秋のこと。
翌年のはじめまでの半年間が期間。

「松平記」や「三河物語」は、一揆の開始を永禄5年としているが、この時期は今川方と東三河で激戦中。当時の状況からすれば永禄6年説だろう。

ただ、村岡幹生氏の説では、一揆に至る対立の構図は永禄6年秋よりも、もう少し早いのではないか、とされている。

永禄6年6月付で元康が松平三蔵忠就ただなりに宛てた文書で、「大野取手」と呼ばれてきた部分は「上野取手」ではないかとし、そうなると一揆に至る対立は夏には始まっていたことになる。

上野城は一揆方について酒井忠尚の居城だからだ。(…そもそも酒井忠尚は一揆についていたのかは疑問だが…。私の論より)

一揆が起こった要因は大きく2つ。

不入特権侵害説

「松平記」は上宮寺発端説
「三河物語」と「永禄一揆由来」は本証寺発端説
一向宗寺院への不入権侵害の行為に抗議して蜂起した、という点では一致。

流通市場介入説

本願寺教団が掌握する水運・商業などを手中にすべく、家康側が誘発したもの、とする説。
永禄5年4月18日付で本願寺系の無量寿寺に不入特権を安堵しているので、不入特権侵害説は政策として整合性がないとして退け、一円支配体制を図ろうとする家康側の経済活動に対する統制強化・地域市場圏への介入が原因になった。

東三河に侵攻し、三河統一も目前となっていた時点で、あえて家康から誘発したものとは考えづらい。また、流通・経済の統制はできるだけ早い時期に取り組まなければならない課題とはいえ、この時点ではなかったであろう。

他方、不入特権侵害説は前年の無量寿寺に不入特権を安堵しているのを見ると、不入特権を否定して意図的に仕組んだものというのも考えづらい。

資料があいまいなものからすると、事件はむしろ兵糧米の徴収に絡んで偶発的に起こり、それが不入特権に関わる問題であったがために、一向宗寺院の反発を引き起こし、さらに反松平勢力と結びつくことで、一揆へと発展したとみるべきでないだろうか。

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