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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #2 今川氏の滅亡と駿河・遠江(2)

信玄の駿府撤退

駿河に侵攻した信玄だったが、窮地に立たされていた。

北条氏の素早い進軍、北には大宮城の富士氏、西には山西地域の今川勢。
駿府に閉じ込められる状況だった。

年が明けてもその状況は改善されることがなかったどころか悪化していた。

氏政勢、1月26日に本陣を三島から薩埵山に移し、「甲・相1里の間に対陣候」とあるように、益々厳しい封じ込め作戦を展開していた。

さらに2月では、
23日、駿府の北、安部奥で一揆が起こる。
26日、北条氏邦の軍勢が武田の小荷駄隊を襲う。

このような窮地に陥り、信玄は誰に頼ったかというと、織田信長だった。

織田信長は足利義昭公の側にいたから、将軍を通じて和議を結ぶ考えでいた。

信玄がまず思ったのは越後上杉氏との和議。雪解けとともに信濃。西上野に進軍をされたら負けてしまう。

この和議は無事成立。2月に「甲・越和与(和議?)」を命ずる将軍御内書が発布された。

信玄は3月23日に市川十郎右衛門に宛てた書状で、

信玄は、ただ今は信長を頼むほかなく、もし信長から疎略にされれば、「信玄滅亡疑いなく候」と述べている。

他方で、越・相同盟の交渉も進んでおり、永禄13年(1570年)4月、北条氏康の息子・三郎(のちの景虎)の養子入りが決まったことで、それから間もなくして甲・越の手切れとなったと言われている。

4月24日、信玄は駿府を命からがら脱出。28日に甲府に帰着した。

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