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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #2 今川氏の滅亡と駿河・遠江(4)

信玄の第二次駿河侵攻

永禄12年(1569)、第一次駿河侵攻作戦に失敗した原因は、北条氏の介入にあったため、甲府に戻った信玄は直ちに、北条方へ攻勢を開始した。

5月、武蔵の八王子口、相模の津久井口。
6月、駿東郡の深沢城(御殿場市)
同月25日、今川旧臣の富士信忠・信通父子が守備する大宮城(富士大宮市)を攻撃。
7月3日に攻略。武田氏は甲斐~駿河間の交通路を確保できるようになった。、

一旦甲府に戻った後、8月24日に出陣。
9月9日、御岳城(本庄市)、10日鉢形城へ攻撃。ついで、北条氏照の守備する滝山城を攻撃。いずれも落とさないまま南下する。
10月1日、小田原城包囲。これも、小競り合い程度に終わる。
同月5日、津久井口へ退散。この際、北条氏照らの軍勢と三増峠で合戦となったが武田方の勝利に終わった。

こうして信玄は、武蔵・相模を席巻。この行軍の成功が、第二次駿河侵攻の行方を決定づけるものとなった。

まだ、徳川家康が今川氏真と和睦を結ぶ前の出来事。
第一次駿河侵攻で北条氏が介入してきたせいで、駿河の領土を攻略できなかった武田氏は、引き返した後、標的を北条氏に変えて、風林火山のごとく侵略を進めていった。

12月、信玄は再び駿河へ侵攻した。
東の薩埵(さつた)山に岡部和泉守や北条氏の家臣
蒲原城には北条氏信やその家臣
やや離れて、興国寺城には重臣・垪和(はが)氏続が入っていた。
西の山西地域では、花沢城(焼津市)に大原資良
徳一色城には長谷川正長らが守備。
信玄退去後の駿府には岡部正綱らが入っていた。
一方、横山城には穴山信君、久能城には板垣信安らが守りを堅くし、ひたすら信玄の来援を待っている、という状態だった。

北条勢も駿河を守り抜くべく、守備堅く配置されていた。

信玄は、①6日、蒲原城に向かい、攻略。城主はじめ北条勢の多くの家臣を討ち取った。蒲原城には山県昌景を城番とした。信玄自身もこの城に入った。(10日には信長へもこの勝利を報告している)
②12日夜、「薩埵自落」(薩埵山にいた今川旧臣の岡部和泉守が退去した)
③13日(第一次駿河侵攻から丁度1年たった日)、駿河侵攻。力攻めするのではなく、臨済寺の鉄山和尚を通じて懐柔し、岡部正綱は武田氏に降った。

あっという間に駿河を奪還することになる。さすが、武田信玄である。
同じ時代に生きていたとすると、敵にはしたくない人物だな、と思う。

永禄13年(1570)、駿河山西地域の平定に向かった。
花沢城侵攻。1月4日に合戦が始まり、16日には激戦になる。
27日、落城。大原資良は高天神城へ逃れた。
2月はじめには得一色城を攻略。田中城と名付けた。
同月22日の信玄書状によれば、
”田中城は重臣の三枝虎吉、二・三の曲輪には朝比奈信置・輝勝を守備させた。”とある。
15日には清水湊に陣を移し、水軍拠点の構築を図る。
22日、甲府に帰還。
これによって、駿河中・西部は武田氏の支配領域となった。

時系列でいうと、わずか1年弱(8か月)ほどで、北条氏が守備していた駿河郡を武田氏が攻略したことになる。

この時期は、度々織田信長に近寄って書状を出していたが、それは足利義昭という将軍を庇護していたからだろう。

織田信長単体であれば、決して歩み寄ることはなかったんだろうな、と思う。

このような大きくて畏怖する存在が身近にいた徳川家康。
敵には回したくない相手だろうと思うとともに、ここまで強いと、いずれ攻め込んでくるだろう、と思わされてしまう。

関東の雄・北条氏康率いる北条家相手にいとも簡単に駿河を取り戻す。

ただ、前回も記載したように、徳川家康はこの時26歳。若さもあり、「勝てない相手はいないだろう」とここまで順調に領土を広げた自分に対し、才能に溺れてしまった部分もあるかもしれない。

このあと、三方ヶ原の戦いに続く。

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