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Ⅰ 三河支配の成立 #2 桶狭間の合戦と元康の自立(6)

元康から家康へ

 永禄4年(1561年)4月から始まった東三河侵攻は、永禄5年(1562年)に激化された。

今川方の主な武将は吉田城(豊橋市)の大原資良すけよし、田原城(田原市)の朝比奈元智もととも、牛久保城(豊川市)の牧野成定、上之郷城の鵜殿長照ら。

元康はまず、上之郷城を攻めた。永禄5年2月、長照を討ち、子2人を捕虜にした。

長照は氏真と従兄弟の関係だったので、長照の子2人と、駿河で人質状態になっていた元康の正室・関口氏(築山殿)、嫡子竹千代(信康)、長女亀姫との交換が成立。今川氏からの離反は一層進むことになった。

永禄6年(1563年)に入ると、今川方の劣勢は顕著となり、氏真の禁制は永禄6年にはもはや三河では見られなくなった。

永禄6年3月、信長の次女徳姫と元康の嫡男竹千代との婚約が成立。元康と信長は攻守同盟に発展。

「徳川幕府家譜」によれば、永禄6年7月6日、「元康」を「家康」と改めた。これで、名実ともに今川氏と決別した。

こうして、三河の新興大名として自立しかけたところ、三河の一向一揆が勃発した。

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