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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #2 今川氏の滅亡と駿河・遠江(5)

元亀元年の家康


元亀元年(1570)、家康にとっていくつかの重要な出来事があった。
1 金が崎の退き口
2 姉川の戦い
3 引間城の改修
4 上杉謙信との同盟

家康はこの時28歳。血気盛んな時期である。

2月、岐阜に赴き信長公とともに上洛。
4月、越前朝倉攻め。手筒山城・金ヶ崎城を落とすも、浅井長政の裏切りにあい、退却。4月30日に京都に逃げ帰る。
6月19日、信長小谷城に向け出陣。21日には虎御前山に着陣。織田二条南にある横山城を攻撃。家康勢も5000の兵を援軍に出し、着陣する。

かなり多くの数の兵が動員された。

越前からは朝倉景健が8000の兵を率い、浅井を支援。
浅井朝倉連合軍が13000人、織田徳川連合軍が25000人と言われている。
6月28日午前6時、合戦開始。織田軍が浅井軍に押され、劣勢となるも、徳川勢が横槍を入れて切り崩し、形成逆転。勝利を得たとされている。
信長はそれ以上無理はせず、横山城の陥落をして、木下秀吉をそこに預けて引き上げた。

姉川の戦いが金ヶ崎の退き口と同年に起きていることは初めて知った。
この時代は常にスピード感早く物事が進むのだな、と思った。

落ち込んだり、自分を責めたりする時間があれば、次の戦略を練る。失敗をしてもすぐに立ち直り、迅速にやり返すという行動力がいるのだな、と思った。

6月、居城を岡崎から浜松に移した。元々は1569年秋、見附城(磐田市)に移ろうとしていたのだが、信長から、「天竜川を越えた東では万一の時の支援ができないから」と止められ、その手前の引間城を改修し、浜松城とし、そこに入った。
岡崎城は嫡男の信康が入った。
改修工事は続き、9月12日に家康は浜松城に移った。

6月に浜松に居城を移し始め、その間に姉川の戦いに参戦し、勝利を得たのち9月に移った。領土も広がり、対武田に備えるためだろう。

10月、上杉謙信と同盟を結ぶ。
8日、条文は二条余り。
1.信玄へ手切れ、家康深く存じ詰め候間、少しも表裏打ち抜き相違の儀あるまじく候(信玄との手切れ)
2.信長・輝虎御入魂候様に、涯分意見せしむべく候。甲・尾縁談の儀も、事切れ候様に諷諫せしむべく候(信長・輝虎間の入魂(?)だけでなく、織田・武田間の縁談の阻止を誓う)

着々と信玄対策を進める。しかし、謙信は遠い越後の国の大名。少しでも足しになれば、という同盟なのかなと思う。
第二次駿河侵攻の時にも書いたが、風林火山のごとく、北条方の城を落としてきた武田信玄。同様に徳川家康もそのスピードに翻弄され、飲み込まれることが必定と感じるが…。

一方信玄は、北条への攻勢を強めた。
元亀元年(1570)4月に出兵、5月、吉原(富士市)から沼津、伊豆の田方郡方面で小競り合い。
8月は信玄自身が黄瀬川に陣を敷き、興国寺城・韮山城を攻めた。
年末からは深沢城を攻撃。
翌元亀2年(1571)正月3日付で開城を促した信玄の矢文が知られている。正月16日、北条綱成の判断で開城。
興国寺城は残った者の、武田氏が駿河一国をほぼ抑えた。

元亀2年3月から5月にかけて遠江の高天神城に迫り、東三河の足助城、野田城を落とし、吉田城に攻勢をかけたと言われてきたが、近年の説でそれは天正3年(1575)と改められた。

家康の20代後半は、領土拡大と百戦錬磨の信玄の脅威にさらされる時だったんだな、と振り返る。20代前半は三河一向一揆から三河の平定まで。
舞台は今の静岡県西部から中部に移っている。

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