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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #1 信玄・家康の今川領侵攻(1)~(4)

武田氏の動向、三国同盟の破綻

この頃、甲相駿三国同盟にヒビが入った。
今川義元が桶狭間の戦いで敗れたのち、その後継ぎ・今川氏真が上手く引き継ぐことができず、次々に領土を奪われていった。

それを見限ってか、武田信玄は同盟を反故にするように、織田信長と和議を結んだ。信長と和議を結んだということは、信長との盟友・徳川家康とも親交を深めたことにつながる。したがって、今川氏真と武田信玄の間に亀裂が入った。

それに反対だった氏真の妹を妻として迎えている義信との間で対立が発生。

義信に謀反の嫌疑あり、として側近の飯富虎昌(おぶとらまさ)、武田義信は処刑された。

これに対して、氏真は上杉謙信と手を組もうとした。
しかし、この動きが信玄にばれてしまう。

信玄は、「氏真が武田家を滅ぼそうとしている」として、北条氏に申し入れ、信長にも駿河侵攻を行うことを申し入れ、同意を得た。

信長公は近江六角家との争いの真っただ中。信長にとっても信玄が駿河に目が向くことはありがたい話だった。

同時期のタイミングで、徳川家康も遠江に侵攻。1568年12月のことだった。

信玄の第一次駿河侵攻

当初は、順調に駿河侵攻を果たし、今川館に火を放った。
しかし、氏真は北条氏に支援を求めていた。

北条氏政は、直ちに駿河へ兵を向け、武田と一戦交える。名目は、氏真支援。信玄にとっては想定外の出来事だった。駿河東部を北条氏に抑えられたことも大きい。

家康の遠江侵攻

信玄の駿河侵攻に呼応として、家康も遠江侵攻を開始。

井伊谷3人衆(菅沼忠久、近藤康用・鈴木重時)が案内役。

遠江侵攻は極めて順調に進んだ。
1568年12月20日 中遠の匂坂吉政に本知行790貫文安堵

1568年12月21日 久野城 久野宗能に本知行2500貫文安堵

     12月26日 二俣城 鵜殿氏長、松井和泉守に知行地の安堵
 
     12月29日 犬居城 天野藤秀 本知行500貫文安堵

1569年 1月11日以降 中山又七、牧野源介、大村弥兵衛、大村弥十郎、加々爪備前守ら所領を安堵

1569年 1月12日 小笠原清有 新知行地432貫文安堵武田方が二俣から愛宕山を経て、12月18日に奥平・菅沼軍と衝突。武田軍勝利に乗じて、引間まで向かってきた。

怒った家康は、信玄に抗議文を出す。抗議文と行き違いか、信玄から家康宛てに「急速の御出張、本望満足に候」という手紙が届いた。

そののちに、家康からの抗議文を受け取ったため、

「秋山伯耆守(引間まで向かってきた先鋒隊)の信州衆、遠州競望たるべきの様(遠州を狙っているような様)、御疑心の由候(疑いのこころの理由だ)、所詮、早々秋山をはじめとして、下伊那衆を当陣に招くべく候(秋山隊をはじめとして、下伊那衆も退かせる)」

との文を家康宛てに出した。

さて、こうして家康は遠江、信玄は駿河を抑えた。
5月23日付、家康が信長に宛てた書状で「人質の返還は思い通りになった」と事前に信玄と家康で取り決めがあったことが伺える。

信玄の遠江進出に疑念がぬぐえない家康は、これ以降、北条・上杉方に気持ちが傾くことになる。

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