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行動はするが、実力が伴わない大学生。

 大学に入学してから、はやくも一か月になり、段々と生活になれてきたのですが、毎日考えることについて文章にみたいと思います。

 タイトルにもある通り、ここ最近の筆者は
「行動はするが、実力が伴わない」ことについて思い悩んでいる。
実力というのは、ここでは頭の良さや、勉学についてだ。過去を振り帰ってみると、筆者は幼少期から勉学に興味がなかったし、不登校をへて通信制高校に通っていた事もあり、勉強は殆どできなかった。しかし、周りの尽力もあり、それなりの大学に通うことになったのだが、勉強をしてこなかった事実は変わらないので、周りとの大きな差を感じる事になった。

 特に悲惨なのは、発達障害の特性もあってか、無駄に行動力と好奇心があるのだ。例えば、講義室では一番前に座ったり、頻繁に教授に話しかけに行ったりする。しかも、現代文だけは良くできたから、会話などの表面上は普通に見える。しかし、英語や数学などに取り組むと、全く無学で無知であることが露呈する。さらに、本人は深く内省するタイプであるから、他人の自分に対する評価とか、自分と他人の能力の違いとかいうものに、非常に繊細になって反応してしまう。そうすると当然ながら、今まで勉強を積み重ねて大学に入ってきた人達と、全くしてこなかった自分という、見も蓋もない現実が筆者に突き刺さる。実際、私は数学2Bを殆どしていないので、微分積分学の授業を殆ど理解できないし、集合を扱う数理論理学なども周りと比べると、あまりできない状況だ。プライドなのかなんなのか、これらの事実は、筆者が精神状態をコントロールしようともがいても、嫉妬や焦燥を現出させ、自己嫌悪に陥り、挙句の手には生きていることに対する絶望感を引き起こすのである。

 結局のところ、勉強をしてこなかった自分が悪いのだし、勉強しなくても講義が理解できるような頭の良さがあるわけでもないから、素直に自分の立ち位置を受け入れればいいのである。でもそんなに、うまくいくわけもなく意識的には受け入れているし、そのように振舞うのだが、いざ自分ができないことに直面させられると、動揺を隠せない。そして必要以上に自分の価値を低く見積り始めるか、逆に、自分の価値を誇大妄想し始めるのである。このような状態に陥ったとき、筆者はなにもかも信じられなくなる。自分が言ったことに対して、反抗してくる自分も存在するし、その状態で他者と出会いでもしたならば、他者の発言の真意が一体どこにあるんだか見当もつかなくなって、自分がもはや何を言っていいのか、何を言ったら駄目なのかさえもわからなくなるのだ。自分の存在や価値などの答えがない問いは、否が応でも必然的にやってくるものだが、それについて考えるという事は、筆者にとって非常に恐ろしいことである。

 考えないようにしても、考えてしまうのだし、身体や心の反応として現れるのだから、「自分と他者の比較」なんてやめられるわけがない。その状態で行動をするのならば、比較の差をもっと広げることとなり、肝心の実力が伴っていないことをより強く認識させられるだけである。おそらくそれに、ここしばらく苦しめられているのだ。

 これらを改善する方法は、正直まだわからない。だが少しずつでも、今自分の眼前にある大きな山を直視し、小さな目標を立て、地道に切り崩していく事が重要なのではないかと思う。筆者自身にとって辛辣な言葉になるが、自分が悩んで考えていることはすべて、「自分を守る言い訳探し」なのであり、非常に醜悪で陳腐な、なっがったらしい自己弁明なのだ。ときにはそれも必要ではあるが、その思考はまだまだとても未成熟であり、社会で生きていくためには絶対に乗り越えなければならない。

 最後に、苦しんでいる私を応援してくれる、顔も見たことのない心優しい先輩が送ってくれた言葉を書いておこう。

「努力は難しいし、なんなのか分からないけど、自分を信じ続けること。」
筆者は、今の自分を信じ続けてみようと思う。


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