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匂い、匂う


八月のことはよく覚えていない。

素足でプールの水をずっとかき混ぜているように、何にも届かない場所にいた。


ギターを指で弾いて渡る際の、きゅいん、が耳の奥で溶けていく。遅くなった帰り道で自動販売機の売り切れが赤く四つひかる。マンションの階段はいつも静かだ。玄関の扉をあけると、シンクから泥の匂いがする。

いい匂いする、って言われたこと思い出す。下腹部が痛む。お互い隣に座ったまま、彼はこちら側へ抱きついて、胸に顔を埋めていた。からだの筋をどこか痛めそうな体勢で、今日〇〇くんいい匂いする?今日は香水つけてないよ仕事だったからでも〇〇はいい匂いする、なんて続けられてわたしは頭を撫でていた。

なんの感情もなかった。
何してるんだろうと思っていた。カラオケの画面はちかちか流れていた。なにもかも無駄だと思った。
あまりにも好きだった。彼のスーツ姿も、ふだんのほんわりした雰囲気も、てきぱき仕事をこなしているかっこいいところも、歌が上手くて、顔が好みなところも、甘えてくるところも、甘えられる相手なら割と誰だっていいところも、私の事が好きだけど特別好きではないところも、ツッコミが鋭いところも、話題があちこち行き来すると拗ねるところも、香水をつけてなくたってものすごくいい匂いがするところも。

でも、ぜんぶ別になくてもよかった。

撫でながら、ワックスをつけた髪は嫌いだと思った。いつものさらさらに戻って欲しいと思った。オーダーメイドのスーツは、果てしなく似合っていた。かっこよかった。

でもすごく、どうでもよかった。

相反する2つが同じところにいた。大好きだけど興味がなかった。会いたくなるけど時間は無駄だった。大きな駅はお店も全部高いところにあって、エレベーターで行ったり来たりした。抱きついてみたりもした。充電できた?って聞かれた。
からっぽだった。

わたしはいつもからっぽだと思った。
誰のにおいも入らなかった。
だから誰もあたためることができなかった。

風が降りしきっていた。
一人で帰る夜道で、うまく悲しくなれなかった。

下腹部が痛む。生理痛特有の重くて纏わりつく不快さが腰から這い上がってくる。たまらずふとんに潜り込むと強く目を閉じた。



23.1013

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