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水たまりで息をする

 生き延びてしまうのに、心も体も同じだけ関係がない。
 つよく息をこすって、からだから流れてゆく綺麗じゃないものの全てがしがらみのように残されて、ベランダの隅に吸い込まれてゆく。


 泣いてしまった。
 夫が風呂に入らなくなり、雨が降るたびに外に出るようになり、この世から遠ざかっていく中で、味方になるも立ちはだかるもせず、ただ生き延びてしまう彼女の、悲しくないわけではない生き様。感情がピンポン玉のように行ったり来たりそれも彼女の中だけで行われ、たしかに彼女は強いけれど、強いことが決して楽なわけではないことを、じっくりと火で炙られるように感じる。

 特に台風ちゃんと名付けた魚についての描写は傷み切れなかった果実のようにずっと心のあるべき場所を搾り取られてゆく感じで、こちらが泣き出してしまった。可能性のないことを、わかっていながら可能だと思ってしまうのは、それは彼女の愚かなやさしさだったのではないだろうか。

 夫にとって、東京自体があのぬるい水たまりそのもので、洗い流してくれる台風を待つしかなかったのだろう。何を求めているのかわからないままに半分ほど魂をそちらへ移して、それでいて人間らしく生き続ける彼の、正しいともいえる弱さが彼女との対比として際立っていて、余計に苦しくなった。

 高瀬隼子さんの描く物語はいつも物語より現実で、あまりいい匂いのしないものだ。それだならこそ、わたしは何度でもその物語へのめり込んでしまう。

 川のある地域に住んでいる。田舎ではないにせよ、川のある地域に住んでいる。狂える人が狡いというような描写が何度か出てくるけれど、その通りだから、わたしも今日は水をたっぷり浴びて眠ろうと思う。はくはくと息をうまく吸い込めない側の人間だって生き延びてしまうから。この世は優しくできているから。


 ぜひ読んでみてください。

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