漫画『ルリドラゴン』を読んで思った、私の幼少期の「特性」のこと

2日前に漫画『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の最新刊(25巻)を買いにアニメイト三宮店(神戸市中央区)に寄った。

ついでに何か買おうかな、と思い、各棚を満遍なく眺めていて目に入ったのが今回取り上げる漫画『ルリドラゴン』少年ジャンプ系ではあまり多くない女の子が主人公の漫画だ。

前々から話題になっていたことは耳にしており、作者の方が体調不良で休載していたが、今年になって連載が再開されたということもネットニュースで知っていた。

また、私も時々投稿し、掲載されたこともある産経新聞夕刊の「ビブリオエッセー」でも、『ルリドラゴン』が紹介されていて読んだことがある。

「ツノがあっても優しい関係」というタイトルで2023年2月9日付で掲載されていた。静岡県掛川市のお茶っぱ魚さん(32)という同世代の人が書いていたエッセーだったこともあって、記憶に残っている。以下に当該エッセーのURLをのっけておくので、興味がある方は読んでみてほしい。

ぶっちゃけ、『ルリドラゴン』を読んだ感想として私が言いたいことは、お茶っぱ魚さんが十二分に書き切っている。

だから私は私で、自分自身の「特性」を引き合いに出して、『ルリドラゴン』という作品の価値を検討してみたい。

私はプロフィール欄で諸々記述しているが、かかっている心療内科医に幼少期から「発達障害」だった可能性を指摘されている。

医師があえて確定診断をしないでいるのは、私が「発達障害」だったと今更言い切ることよりも、現に確定診断を受けている「双極性障害(Ⅱ型)」について、現在の困りごとに焦点を当てて、如何に対処するかのほうが大事だからだと医師が判断しているからではないかと、私は思っている。

まあとにかく、幼少期(幼稚園以前~小学校低学年くらい)から、私は明らかに周囲と違っていた。

いくつか挙げてみると、

家族以外と一切会話をしない。しないというより、できなかったのかもしれないが、自分でも自分の意志で会話をしていないのか、そもそも会話ができないのかがずっとよく分からなかった

周囲の子どもと一切遊ばない。母親が心配して、クラスメイトの男の子の親との間で子どもを共に遊ばせる約束をした際に、母に連れられてクラスメイトの家に連れていかれた私は彼と遊ぶことはなく、ただ与えられたお菓子を食べてそっぽを向いていた

・母親の影響もあったが、周囲の子どもが誰でもやっているゲームを一切しなかった。それでも周囲の子どもの会話にそもそも興味がなく、その会話に入っていきたいという思いも全く抱かなかった

昆虫が大大大好きで、夏休みは毎日ひとりで虫捕りに行っていた。買ってもらった昆虫図鑑を毎日食い入るように眺め、小学校低学年の頃には学校の図書室で昆虫関連の書籍を借りれる分だけ全部借りて読みまくっていた。小学生にしては詳しすぎるくらい昆虫のことを知っていて、小学校3年生のときには、クラスで飼っていたアゲハ蝶のさなぎから蝶が生まれなかった理由が寄生バチのせいだと瞬時に判断できた。周囲の子も当時の担任の先生も寄生バチの存在を知らず、内心で「寄生バチを知らないなんて、周りの人間たちはバカすぎる」と大変不遜な感情を抱いていた。グラウンドでのサッカーの授業のときなど、小学生特有のボールに群がるお団子状態には目もくれず、コートの端のほうで蟻の行列を観察していた。お盆の時期で、母親から「ご先祖様が帰ってきているから生き物を取っちゃダメ!」と言われていたにもかかわらず、ご先祖の墓がある島根県雲南市の山寺の脇の雑木林に入って、家族が墓参りしているのを尻目にかなかな蝉ことヒグラシを捕まえていた。あのヒグラシが実はおじいちゃんだったのかな?かな?

・自分でいうのもなんだが、勉強はかなりできた。少なくとも小学生の頃に、テストで100点以外を取ったことは滅多になかった。幼稚園の年長くらいから公文式の教室に通い出したが、小学校3年生の頃には中学1年生向けの単元のプリントを楽々解いていた。先生からは「白築くんは頭がいいね」と言われていたが、従兄のほうが頭がいいので、むしろ自分はダメ人間だと思っていた(従兄は現在、製薬会社の研究所に勤めつつ、東京大学大学院の農学系研究室で教鞭を取っている。もちろん博士号も取得している。今でも従兄に対して、学歴その他諸々のコンプレックスを抱えているうだつの上がらない残念なおじさんが私である)。私も公文式をずっと続けていたら学者になれたのかもしれないが、小学校3年生が終わるころに急に公文式に通うことに飽きて、やめてしまった

・小1の頃、教科書の内容が簡単すぎて、退屈だったのだが、急に単元ごとに出てくる白抜き数字(①、②、③とかで、数字が白抜きになって、円の中の数字以外の部分がベタ塗りされているやつ)が気になりだした。数字の白抜き部分を鉛筆で塗ると、塗り絵みたいで面白く、クセになって前ページの白抜き数字を授業中に鉛筆で塗っていたら、隣の席にいたN君という私が嫌いだった陽キャで言動が粗暴な同級生に「白築がなんか数字塗っとる! 変なの!」みたいに言われ、私は何がそんなにつらかったのか、大泣きしてしまった。先生が駆け寄ってきて、私は無言なので、N君に事情を訊いていたが、N君も先生もなぜ私が泣いたのか理解できないようだった

・とてつもなくこだわりが強く、一時期、左利きを矯正しようと家族らが働きかけてきた時期があったが、私は頑としてそれを退け、箸を使うのもボールを投げるのも字を書くのもドアノブを握るのも習字の筆を持つのも改札で切符を入れるときに切符を持つのも包丁を使うのもゴルフクラブを持つのも、ぜ~~~~~んぶ、左手でやり通した。自分を曲げるのは嫌なので左利きに極振りしたんだと思います。「防御力に極振り」するライトノベルのタイトルみたいだが、左利きに極振りした結果は、今のところ芳しいものではなく、寧ろ右脳を使い過ぎているせいか周囲との物の捉え方や考え方が違い過ぎて、同調圧力が強い日本社会ではむしろ社会不適合者と言っていい立場に甘んじている。いっそ芸術家とか音楽家、小説家などの大胆な発想が大事そうな仕事人になれたら覚醒できたのかな、などと淡い夢に浸る瞬間が最近でも稀によくあるのだが、いかんせん、何らかの道で覚醒できるほど、私は物事を継続するような性質がないのだ。とにかく集中力が続かないし、興味の対象がコロコロ変わる。今でも一貫して興味があるのは「虫」と「アニメ」と「野球」くらいではないだろうか。多芸は無芸である。悲しいなあ……。

などと、ほんの一例を出してみても、挙げればキリがないほど私は周囲と違っていた。

ハッキリ言って、浮いていた。

発達障害の特性に詳しい方なら、たぶん察しがつくであろう。

私は発達障害の中でも「自閉スペクトラム症」の傾向が強かったのだろう、と、大人になってから指摘を受けた。大学を出て公務員になってから自殺未遂をして、心療内科に通って双極性障害の診断がついたころに、過去の成育歴を医師に伝える中で、可能性を示唆されるに至った。

したがって、子どもの頃の私は、「自分が発達障害なのかもしれない」なんて夢にも思わないし、そんな障害の存在もしらないし、何なら私の幼少期など四半世紀も前のことで、大人も親も何なら医者も、ほとんどの人が発達障害という概念すら知らない時代だったろう。ただのちょっと変わった子ということで、治療の必要性など考慮されることなく、見過ごされてしまった。また、下手に頭が良かったことが、「この子は話さないけれど、優秀だから大丈夫」とスルーされる理由になったのだと、今では思っている。

私にとっては、周囲となじめずに孤立していること自体はさほど気にならなかった(常にぼっち過ぎて、ぼっちでいるのが当たり前だと慣れてしまっていたし、自分の中に深く潜るのが好きだった。要するに、ひとりで自分の関心ごとにまっしぐらに突き進むのが一番楽しかった)が、出る杭は打たれるし、なんなら出過ぎた杭は水攻めに遭って沈められる
孤高の人っぽく集団の中で悪目立ちしまくった私は、小さな嫌がらせを各方面から受け、現在だったらイジメとして問題になりそうなことを、朝の登校班で上級生からされたりもした。記憶力が抜群に良いので、当時のことは今でも映像的に鮮明に覚えている。まあ、ある種のトラウマだろう。トラウマが多すぎて、嫌がらせをしてきた相手と同じ苗字の人に出会っただけで、フラッシュバックが止まらなくて苦しくなる。
トラウマのフラッシュバッカーが多すぎる!

だが、そんな幼少期の風変わりな私でさえ、見た目は平凡な子どもで、両親ともに日本人。
傍目には、外面だけなら周りから一切浮いていない。

一方で『ルリドラゴン』の主人公、高校1年生の青木ルリはある朝、目が覚めたら自分の頭に角(ツノ)が生えていたことに気づく。

それは例えるならフランツ・カフカの小説『変身』の主人公グレゴール・ザムザが朝起きたら自分が巨大な毒虫になっていたように。

あるいは漫画・アニメ『まちカドまぞく』の主人公の吉田優子(シャミ子)が、突然闇の一族の力に目覚めて角(ツノ)としっぽが生えてしまったように。

ルリはその日の朝になって母親から、自分が人と龍とのハーフであり、龍である父親側の遺伝の影響で、ツノが生えたのだということを知る。

私の特性が、元からあったものであるのに対し、ルリの特性は、もとから可能性として備わっていたとはいえ、本人にとっては突然発現したようなもの。こりゃえらいこっちゃ。

現実でいえば、ある日突然、後天的に重い病気を発症するとか、大けがをするとか、障害を抱えてしまうとか、そういう場合に近いだろう。

そんなとき、自分自身が特性を受容していく過程が重要になるし、周囲がまた、特性を理解してくれて、合理的な配慮をしてくれることが大事に違いない。

その点で、ルリは本人のものの考え方が柔軟であった上に、周囲の環境も恵まれていた

「まぁ 
 生えてしまったもンは
 しょうがないしな」

『ルリドラゴン』1巻20ページ

悟りすぎぃ!

高校1年生の多感な女の子が、いくら母親から龍の遺伝だという事情を説明されたからと言っても、普通はスンナリこんなふうに思えないだろう。

そこは漫画のキャラクターだから……と言われたらそこまでかもしれないが、どんな災厄が身に降りかかろうと「まぁ、人生長いんだからこういうこともあるだろう」と、とりあえず現状を受け入れて前に進めるかどうかは、その後の人生の歩みに大いに影響を与えるに違いない。

この後、ルリはまたも龍の体質のひとつが発現し、学校の教室内で意図せずに口から火炎放射を発してしまい、前の席に座っていた男子の後頭部の髪をちょっと焼いた挙句、喉を火傷で痛めて血を吐き倒れてしまう。

こんなん二度と学校なんていけるわけないやん!

私はそう思ってしまった。
だが、ルリは学校に復帰することができた。
復帰に至るうえで力添えとなったのが、母親と友達の存在だ。

「火傷もう大丈夫!?」

「う・・・うん」

「そっかー よかった
 学校来ないから心配したよ!」
 
(中略)

「また学校でね!!」

『ルリドラゴン』1巻84~85ページ

「先週ルリちゃん 火吐いたあと
 ルリちゃんのお母さん教室に来たんだけど」

「・・・!!」

「なんだかいっぱい頭下げられて」

(中略)

「見えない所でルリちゃん達が頑張ってることだから
 あたし達が怖がることじゃないかなって」

『ルリドラゴン』1巻135ページ

前者は、火炎放射事件後に元から友人だった萩原裕香(ユカ)から、学外のスーパーで声を掛けられた時の会話の抜粋だ。

火炎放射をきちんと制御できるように母親と訓練するなどして、しばらく学校を休んでいたルリは、ユカの言葉に接して、「学校 行くか~」と気持ちを固める。

ユカは事件直後にも、無料通信アプリで事件後の教室の状況をルリに伝えてくれている。
ルリの身に起こった異変に戸惑いながらも、ユカはルリの本来の性質をよく知っているからルリを怖がらず、何なら半分は面白がりつつ、変わらない態度で接してくれた。
それどころか、ルリのドラゴンの遺伝が発現したのを機に、人付き合いが苦手だったルリとほかのクラスメイトの関係性を改善しようとサポートしてくれる。
ユカの計らいもあって、隣の席に座っていた神代(かしろ)さんと、仲良くなっていくルリ。

引用の後者はその神代さんからルリが聞いた、ルリの母親のバックアップについてだ。

母親はルリが教室で火炎放射を発出した後、教室に赴いてクラスメイトの前でルリの事情をカミングアウトしたという。

「えっと・・・ルリは
 お察しの通り普通の人間ではないです
 隠していてごめんなさい」

『ルリドラゴン』1巻135ページ

あくまで特性なのだから、謝ることではない気がするのだが、火炎放射を制御できずにクラスメイトの一人に被害を与えてしまったのは事実。

母親は、髪をちょっと焼かれてしまった「被害者」の男の子・吉岡とも色々なことを話してフォローしたらしく、吉岡本人も事件から1週間後に学校に戻ったルリに対し、焼けた髪は切ったが、頭皮に被害はなかったし、また伸びてきているから大丈夫だと言い、むしろ吐血したルリのことを気遣ってくれた

元から信頼してくれていた友達の存在。

本人の特性をちゃんと理解していて、周囲にも伝えてフォローを怠らない母親の存在。

そして、そんな本人の状況を察して、排除せずに、ちゃんと理解しようと努めてくれたクラスメイト達の存在。

どれも重要だった。

もう一つ加えるならば、一見不熱心で適当に見える担任の教師が、事前に母親からルリが龍と人間のハーフだという事情を聞いていて、こういう事態になったルリを自然に受け入れてくれたことも大きかった。

この漫画を最初に読んだとき、私に一番響いたのは、以下の先生の言葉だと言っても過言ではない。

「まあ普通の人間社会でもよくあることです
 普通とは違う特性を持った人がいることなんて

 火吐いたくらい気にすることないよ
 世の中色んな人がいるもんです

 みんなも色々思うところあるかもしれませんが 
 まあ仲良くやっていきましょう」

『ルリドラゴン』1巻108~109ページ

こんな先生に出会いたかった(切実)

私が小学生の頃に出会った先生は、基本的に良い先生だったけど、私の本質的な発達的問題を察してはくれなかったし、残念ながら私も、的確なSOSを出せる程度に、感情を表現することができなかった。時代背景の問題もある。だからまあ、しかたない部分が多い。

だからこそ私は思う。
出来る限り、今育っている発達障害の傾向のある子どもたちは、早い段階で的確な支援を受けて、少しでもトラウマの少ない子ども時代を過ごしてほしいと。

幼少期のトラウマは、本当に予後が悪い。

それは私が身を以て体験していることだ。

『ルリドラゴン』は龍の遺伝というファンタジー作品だが、現在の多様性を包摂しきれていない社会への、ある種の映し鏡であり、「こういうふうに人の特性を捉えれば、きっと関係がよくなるはずなんだ」という提言のように私には思えてならない。

この作品が人気を博するのは、本当にもっともだと思う。
『ルリドラゴン』の2巻は今年の9月に発売される予定らしい(ベルアラートより)。買います!!

(了)




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