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【知られざるアーティストの記憶】第70話 渡された合鍵、そして彼は入院していった

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

【変更について:第70話を挿入】
※第69話が長すぎたので、終盤を切って第70話として独立させ、その前半に抜けていたエピソード(彼とメイが会ったこと)を挿入しました。
※それにより、すでに公開していた第70話は第71話としました。
※第69話のタイトルも内容に沿って変更しました。
※ややこしくてご迷惑をおかけします。すでに全部お読みくださっていたかたは、この話の前半だけ(さいかちの写真まで)お読みくだされば大丈夫です。
※彼にメイを会わせたエピソードは彼の入院前でしたので、挿入の形をとらせていただきましたm(__)m

第9章 再発
 第70話 渡された合鍵、そして彼は入院していった

生前の彼にマリが会わせることのできた友人は数えるほどの人数であった。その一人目は、客として連れて行ったImakokoカフェを除くと、足つぼ師のメイであった。

 2021年12月10日、マリは彼と一緒に彼の家の周りの落ち葉掃きをしていた。この頃は街路樹のケヤキも桜もさいかちも皆、ほぼ葉を落とし切り、さいかちは黒くなったさやを順に落としていた。作業用のツナギを纏った彼は、
「服が汚れるよ。」
と言ってマリに手伝いをさせたがらなかったが、諦めないマリにゴム手袋を手渡した。作業中の彼はいつにも増して無口で、慣れた手つきで落ち葉掃きに没頭した。マリもまた無言で、集めた落ち葉を袋に入れるときは阿吽の呼吸で塵取りを構える彼との共同作業に喜びを感じた。昨年は彼の落ち葉掃きを外から眺めていたマリは、それだけで彼の身内になれたような錯覚を起こした。2人で3袋のボランティア袋を落ち葉でいっぱいにした。

そこへメイが訪ねてくることになった。経緯いきさつは、彼が入院することになったこと、再発したことを弟の現状との連動だと本人が捉えてしまっていること、それに対しツインレイであるマリはどのように接すればよいかということをメイに相談すると、足つぼの仕事と仕事の合間を縫って会いに来てくれることになったのだ。たまたまマリが彼と一緒に過ごしている時間とぶつかったので、彼に少しでも足つぼを施してもらうことになった。わずかに40分ほどの時間であった。

メイが到着したとき彼は、落ち葉掃きが一段落し、台所の流しでざぶざぶ顔を洗っていた。それを布巾で軽く拭っただけで、まだ残る水滴をキラキラさせながら「マリのツインレイのイクミちゃん」は登場した。

「こんにちは。初めまして。どうですか、体調は?」
と挨拶するメイに、彼は伏し目がちで終始そっ気ない対応をしたが、
「この間はコウケントーをありがとうございました。」
と最初にお礼を言うことは忘れなかった。そして、両親の介護以来悩まされてきた腕のしびれがなくなったことをぽそぽそと報告した。


©Yukimi 彼のスケッチブックより 落描き、色見本


多くの人が痛みに絶叫するメイの足つぼに、彼は時々静かに顔をしかめたが、ほぼ表情を変えなかった。全体的に張りがなく、痛みも少ない彼の足のタイプは、マリのものと似ているらしかった。メイが彼の足を揉みながら、それまでの経過についてマリがメイに話す、穏やかな時間が流れた。

気功の創始者である郭林女史が画家であったという話をしていると、仰向けに寝ていた彼が、マリから見て逆さま向きの顔をマリのほうに向けて、くすくすと可笑しそうに笑い始めた。彼にはまだそのことを話していなかったのだ。彼は郭林女史が自分と同じ絵描きであったというシンクロに驚き、静かに心動かされていたのだった。

メイは導入したばかりの秘密兵器を取り出し、彼に試させてほしいと言った。それは、「テラクウォーツ」という名前で、水晶(クウォーツ)でできた音叉に「テラヘルツ加工」を施したものであった。テラヘルツ波とは、電波と光の間にある周波数領域(0.1テラヘルツ~100テラヘルツ)にある電磁波のことであり、生命が健康を保つために必要な振動であるため「育成光線」とも呼ばれる。転写装置を使ってテラヘルツ波を転写された水晶の音叉を、人体に当てながら響かせる音叉療法を、メイは足つぼのオプションとして取り入れようとしていた。彼は言われるがままにへそを出したりしながら、第1~第7までのチャクラにテラクウォーツを受け入れた。性器である第1チャクラはこの療法では恥骨に当てるが、
「ここはマリちゃんがやってあげて。」
とメイはするのを避けた。

施術が終わると彼は、お茶も出さない代わりに、テーブルに乗っていたタッパーのふたを開けて、マリが買った神宝塩のドライ納豆をメイに供した。
「私、納豆苦手なんだけど、これは食べれる。」
と言うメイに、彼は
「どうして嫌いなの?」
と問いかけ、不思議そうに彼女のことを眺めていた。

それは、真冬の夕方、もう日の陰った彼の家の3畳の居間でのひとこまであった。真冬は室内でダウンジャケットを着て過ごす彼の家が外気温と同じ寒さであることに、マリはもう慣れていたが、メイはそのことをずいぶんと心配した。

紅葉の時期の写真はあまり撮っていない
現在のさいかちの木

入院の前日に彼はマリに言った。
「家の合鍵をキミに預けるから。」
「え、どうして?」
「毎日でなくて構わないんだけど、たまに時間のあるときに窓を開けてほしいのと。あと、外に水道の元栓があるんだけど、メーターの数字が進んでないかどうか、できればそれは毎日見てほしい。なぜなら、前に水道管が凍って破裂しちゃって、水が出続けて大変だったんだよ。」
「それだったら、水道の元栓は締めて行ったらいいんじゃないの?」
「……だって、キミがこの家に来て過ごすときに、手を洗ったりするでしょう?」
「わかった、じゃあ鍵を預かります。」

彼のいないこの家に、手を洗いたくなるほど長居する予定がマリにはなかったが、彼がそうしてほしいという気持ちと共にそれを受け取った。合鍵には、シルバーの枠にハマった楕円のターコイズのキーホルダーと、マリの中指ほどの小さな黄色いキーライトが付いていた。

入院当日、彼はとうとうマリに車で送らせてくれた。5ヶ月前の前回の入院のときには、家の近くのバス停で見送ったことをマリは思った(→関連記事)。

入院前には検査があるため午前10時までに病院に着かなければならなかったが、普段通りの時間に三男を保育園に連れていったあとでは間に合う保証がなかったので、マリは緊張した。三男の保育園は病院とは正反対の方向に遠かったのである。それに対し彼は、
「慌てないで、キミが行ける時間でいいんだよ。遅れたら、私が適当に言い訳すればいいんだから。」
と言った。自分で通院するときには1時間以上早く着くように行く人と、本当に同じ口が語ったことだろうか。マリは彼の柔軟なことに感じ入った。

さらにもう一つ、距離の縮まったことを感じさせることとして、彼は入院中に洗濯物を届けることをマリに頼んだ。その手間をマリにかけさせることを躊躇いながらも、
「届け物は、入院している7階のナースステーションに預けるんだけど、そのときに私が病室から出れば、すぐそばではないけれど顔が見られるんだよ。実際にそうしている人もいる。別にしなくてもいいんだけど、そうしてくれれば会えるなと思っているんだよ。」
と言った。その提案はマリの気持ちにも明かりを灯した。今回の入院日程は、彼の誕生日と年末年始を含んでいた。

7階ナースステーション前までマリに見送られた彼は、シルバーのダウンジャケットに身を包み、入院バッグを肩に担いで足早に病室へと吸い込まれていった。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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