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【知られざるアーティストの記憶】第81話 彼の選択

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第11章 決断

 第81話 彼の選択

2022年1月26日、T大学病院から帰ってきた彼は、マリの目の中を見つめながら穏やかに話し始めた。
「S医院に、いつ行ってみようかな。それをずっと考えているよ。」

それは、T大学病院に通院しながらの抗がん剤治療に6日間通い、一粒7000円の抗がん剤をあと4粒残している日であった。
「抗がん剤をむとな、便が岩のように硬くなって、下剤をもらって無理やりに便を出すんだよ。」
彼は一度、下剤の容量を間違えて酷い下痢になり、声のかわいい看護師さんに下剤のみかたについて丁寧に手解きを受けたのだという。

「毎日病院の椅子に座ってしばらく休むんだけど、そのときにつくづく、こんなことをしていることに違和感しか感じられなくて、嫌気が差してきたんだよ。」

マリは彼のこの静かな告白に少し驚いた。確かに入院前の彼にS医院の情報提供をしたのはマリであったが、選択肢の一つとして示したのであり、勧めたわけでもなかった(→関連記事)。マリの個人的な信条としては、もし自分が癌になった場合にS医院のような療法を選ぶ可能性は高かった。しかし療法とは、どんなに近しい間柄であっても、たとえ家族であっても簡単に意見することや決定することはできず、最終的には本人が決断するしかない、生き方や信条に関わる神聖なものであるという考えから、彼にも意見することはなく任せていたのだ。

ところが、彼はむしろマリがそれを言い出すのを今か今かと待っていたようでもあった。彼が療法の転向を決めたのは、それぞれの療法に関するあらゆる情報をよく吟味して比較検討するといった態度ではなく、「母親が遣わした人」であるマリが持ってきた情報を採用することに活路を見出だそうとするものであった。そしてそこにこそ、母親がマリとの出会いをもたらしたことの答えを求めたのである。

「え、そうなの?じゃあ一度、S医院に問い合わせて、話を聴きに行ってみる?」
「うん、連絡してくれる?」

T大学病院の抗がん剤は4粒残っており、ここでやめてしまうのはあまりに中途半端にも思われたが、彼の気持ちはすでに切れてしまっている。彼の中の抗がん剤への違和感が限界を超え、彼が療法の転向を決意したその日こそが、そのベストタイミングなのだろうと思えた。抗がん剤と決別するのであれば、何粒残っていようと、1粒たりとも服むべきではないのだから。


©Yukimi 彼のスケッチブックより 落描き、色見本


マリはその場ですぐにS医院に電話をかけた。こういうとき、彼自身が電話をかけるより、マリがかけたほうがうまく行くという暗黙の了解がお互いのうちに成り立っていた。自由診療であるS医院は、治療法の説明も含めた初回の診療相談に1万円という料金を設定しており、それに申し込む時点でほぼ心を決めておく必要があった。

「もしもし、お尋ねします。私は本人ではなく、近所の友人なのですが、白血病で闘病中の人がいます。本人が抗がん剤治療に限界を感じていて、貴院の受診を考えております。初回の診療相談の予約を取りたいのですが。」

時刻はお昼を回り、電話口に出た気難しそうな老齢男性の声は、診察を終えたT院長その人であった。マリは相手に悪い印象を与えないように気を配って声を張り、彼のこれまでの闘病の経緯を伝えた。
「それでは、明日の午前中10時に来られますか?」
「明日ですか?はい、10時に伺います。」
マリは彼に目で確認しながらそう返事をした。

「一つだけお聞きしたいのですが、ホームページの治療実績には白血病の治癒事例が一件もありませんでした。それはどうしてですか?そもそも白血病も治療の対象にされていますか?」

「白血病もその他の癌と同様に治療しますよ。しかし残念なことに、これまで1名も治癒に至っていないのですよ。これまで4名の白血病の患者さんが治療を受けに来ました。ですが4名とも、途中で何も言わずに来なくなってしまいました。だから私にはその事情が解らないのです。」

T先生の説明は、この事象が持つ影を一層深くしたが、その正直なことには好感が持てた。まだ治療実績がない白血病はT先生にとって、自らの療法に対する信念を脆弱にする鬼門のようにも見えたが、それ以上に、そんな一点などものともしない・・・・・・・ほどの太い信念が揺らぐ気配もなく横たわっていた。その強さはマリに対して説得力を持ち、彼がその一人目の治癒例となればよいのではないかと思わせた。もちろん、T先生の受け答えはありのままに彼に伝えたが、これからS医院の門をくぐろうという彼の意思は変わらなかった。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・30


マリは夫にこのことを話し、翌日彼をS医院に送迎する間、三男と留守番してくれるようお願いした。その頃、流行病への厳戒態勢のもとで三男の保育園登園を自粛していたので、彼を送るにはこの方法しか考えられなかった。すると夫は、
≪よかったら明日、俺が運転して行こうか?ハヤテはヒビキと留守番させればいいよ。≫
と、意外なことを言い出した。タクシー運転手の血が騒いだとでもいうのだろうか。
≪え、なんで。どうしてそんなことしてくれるの。意味がわからない。おとう、無理してない?≫
≪していたらやらないよ。素直な気持ちやで。≫
≪そうか。おとうはでっかいなあ!≫
≪ワダさんと話をしていなければやらなかったよ。≫
≪無理はしないで、自分に素直な気持ちで動くことが、おとうのよいところだよね。≫
≪ソコを見抜いたから一緒になったんでしょ。≫
≪ありがとう、おとう。おとうに何も隠さなくて済むのって、こんなにも幸せなことなんだ。≫

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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