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【知られざるアーティストの記憶】第59話 女性とキスをしてもいいですか

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第8章 弟の入院

 第59話 女性とキスをしてもいいですか

二人でImakokoカフェに行って来て、彼はマリにこんなことを言うのだった。
「私はまるで、キミの紐みてえだなあ?」
そして、さも楽しそうにニヤリと笑う。たかがジンジャエール1杯で何を言うのかとマリは思うが、思いのほか彼は気にしているようである。それでも現実的に喫茶に支出するだけの経済的余裕はないし、自分は喫茶店でお茶を飲みたいとも思わない、けれどマリがそれを望むのなら応えてあげたい気持ちもあったのだと思う。

ちなみに、「私はキミの・・・」シリーズで言うならば、
「私はキミの愛人ということか。」
と、マリに確かめるようにふと口にしたこともあった。
「そうだねえ。」
とマリは相手の意図を探りながら答えたが、マリにとっては呼び名などはどうでもよかった。愛する人、つまり愛人、それで結構ではないか。しかしわざわざそう口にしたことの中に、彼の複雑な思いが見て取れた。純愛だけに憧れてきたピュアな彼は、想定外の形の愛を得たことに戸惑っていたのかもしれない。このときもまた、彼は口許をニヤリとさせていた。

やがて、退院後3度目のT大学病院での検査の日が訪れた。彼はまた怯えながら自転車で出かけ、三度みたび肩を落として帰ってきた。血小板の値は3回連続で下がり続け、さらに大きく基準値を下回った。医師もいよいよ再発の二文字を懸念しているようであった。


@Yukimi 彼のスケッチブックより 落描き、色見本など


Imakokoカフェのお客さんに教えてもらった通り、余命1ヶ月の宣告を受けた白血病の若い母親が、塩辛く味付けされた根菜類を中心にした食生活を送った結果、1ヶ月後に退院するという奇跡を伝えたブログの記事は確かにすぐに見つかった。マリはすぐさま「神宝塩」をインターネットで取り寄せた。(註1)

(註1)このブログ記事の白血病の事例は、『正食と人体』を著して塩の重要性を説いた経営コンサルタントの一倉定いちくらさだむ氏の体験手記を引用した箇所である。このブログ記事は「増塩のすすめ」をテーマに複数の記事を引用して組み立てられており、冒頭に近いところに大きく「神宝塩」のリンクが貼られているため、注意深く読まなければ勘違いをしやすいのだが、一倉定氏の白血病の事例には一言も「神宝塩」を摂取したとは書かれていない。マリはこのとき、まんまと勘違いをして「神宝塩」を取り寄せたのであった。

チャック付きの袋に入った500gが2000円という価格であった。マリは送料対策として「神宝塩」を使った塩ドライ納豆と、「神宝塩」を溶かした目薬を一緒に注文した。
「とにかく、この塩をたくさん摂ってみようよ。塩分が苦手という意識は脇に置いて。これは体にいい塩だから。三度の食事のときに、ご飯にもおかずにも、しょっぱいと思うほどに掛けてみて。」

ところが彼は、今まで通りにほぼ塩分のない食事を摂ったうえで、湯呑み1杯の水に小匙2杯ほどの大量の塩を溶かして一気に飲み下した。
「えー、そんなしょっぱいものをよく飲める……。」
マリは悲鳴に近い声をあげ、顔を歪めた。彼はあまりに我慢強いのか、はたまた味覚が鈍感なのか。

「いくらしたの?」
「2000円だったよ。」
「私が払おうか?」
「私の意思でやっていることだから、別に払わなくてもいいんだけど……。でももし、払ったほうが気持ちがいいのなら、払ってくれてもいいよ。あなたの気持ちのいいほうで。」
マリが彼の治療に関わることで金銭の負担をすることを、彼が気に病んでしまうのかもしれないと思い、マリは選択を彼に委ねてみた。すると彼はニヤリとして、
「じゃあ、払わない。」
と言って可笑しそうに笑った。マリも一緒に笑った。

マリは500gの塩の半分を彼の家のタッパーに移し、残りを持ち帰った。持ち帰った神宝塩は、彼に差し入れする料理に使うことにした。塩ドライ納豆も半分こした。
「この目薬は6本セットだったの。ちょっと染みるんだけど、使ってみたい?」
「そりゃあ、使ってみたいよ。」
彼は申し訳ないついでに、マリから目薬も受け取った。マリは、彼が神宝塩に対して――つまりはマリが関心を向ける事柄に対して同じように――好奇心を抱くことを喜んだ。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・9


血小板の値が下がっていくことにも少し慣れてしまった様子の彼は、今回のT病院での診察についてもう一つの報告をした。
「H先生に、『女性とキスをしてもいいですか?好きな人ができました。』って訊いたよ。」
彼はさすがに照れ臭そうに笑っていた。
「え、よくそんなことが訊けるね。信じられない。」
マリのほうが恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「そりゃあ、私だもの、訊けるよ。」
「それで、なんだって?」
「キスをしてもいいって。H先生も、その場にいた看護師さんたちもみんなすごく喜んでくれたよ。」
そう言ったときの彼は、あたたかな陽だまりに包まれているようであった。彼がマリとの関係を他人から祝福された。そのことは、マリをも陽だまりに包んだ。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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