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「責任のある愛」について少し。

最近ちょっときっかけがあって、愛の持つ責任について考えたりしているので、ここ10日間で思ったことを言葉にしてみようかなと思います。

幸せと自立

私は、誰か / 何かに情熱を注ぐことで得られる喜びのことを幸せと呼びます。幸せって本来、人から与えられて生まれる感情ではなくって、自分の中から湧き上がってくるエネルギーのようなものだと思うから。

何かを大切にしたいだとか、誰かを喜ばせたいだとか。そんな風に情熱を注ぎたいと思える対象こそが、その人のエネルギーを生み出す源泉になるんじゃないかなって。

自己犠牲とか、依存とか。不健全な人間関係に陥ると、自分のご機嫌を自分でとるのが難しくなって、苦しくなります。そういうとき、人は自分の分のエネルギーを自分で上手く生み出すことができなくなっているのかもしれないと、最近気がつきました。

本当の意味で誰かを愛していたり大切に思っているときは、相手と一緒に過ごしているときだけじゃなく、1人でいるときも幸せでいられるものだと思うんです。

相手にもっと幸せに生きてほしいと願ったり、傷ついてほしくないと思ったり。そういう純粋なモチベーションは無条件に溢れてくるものだから、何か行動をするためにエネルギーを消費したところで、また勝手に生み出されて補充されるはず。

それなら誰かに愛を与えても自分の中にある愛が減ることはないし、自分を削って犠牲にして相手に尽くすわけじゃないから、自己犠牲にはならないのになって。

それにそういうときって相手にエネルギーを分けてもらっているわけではなくって、人を愛することそのものに喜びを感じているから自立してるし、依存関係にもならないんじゃないかなって。

愛と言葉と責任と

私はまだ19歳で、まだまだこの世界や人間について知らないことがいっぱいあるけれど、それでも「愛」が儚いのは分かります。

だからこそ私は、愛と言葉に責任を持って生きられるようになりたいです。

私たちは毎日のコミュニケーションの中で、自分の心の中身を言葉にして誰かに伝えています。でも当然、私たちの心は簡単に変容するから、1つひとつの言葉に責任を持つのは難しくって。

愛も感情の1つなので当然移り変わります。明日は今日相手に伝えたのとは違うことを思っているかもしれないし、感情に絶対なんてありません。

そういう感情の心許なさは人間として生きる上でどうにもできないけれど、それも全部ひっくるめてその人を受け入れて、相手の幸せを願い続ける覚悟をすること。大切に思う人の変化をいつも気にかけて、分からないながらも理解したい、知りたいと思って歩み寄ること。そうやって人と誠実に向き合おうと一生懸命もがく中で生まれる信頼と絆が、責任のある愛の形なんじゃないかなって。

そんなことを考えながら生きる今日この頃です。

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