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拾ってきた!『2023.11.8』

先日、友達に140字小説を書いてみたらと提案された。
そんな友達の話は↓の日記から。


なのでXで140字小説を始めた。
始めたといってもまだまだ手探りで、何をどうすれば小説になるのかはまだ分からない。

元々Xはnoteの宣伝か、何かのはけ口になれば良いと思いながらアカウントを開設したので、フォローもフォロワーもたくさん欲しい訳ではなかった。
自分の創作を、同じように創作活動をしている方に見てもらうこと。それは私の苦手分野だ。
心の奥底が『敵対視』『評価からの逃避』で埋まっていた私は、創作は好きでも人との交わりは求めていなかった。

小さい頃からインターネットが普及していた私の時代。SNSという言葉は割と最近でも、歌ってみた踊ってみたなど自分の好きを表現する人はたくさんいた。
学生になってようやくスマホを持ち始めたり、好きなアーティストや芸能人が出来る度に、誰かと共有したくてファン垢を作る。よくやったものだ。

でもそこで私が望んでいたものは特になかった。
好きになればなるほど、好きの方向性が違う人に好きと言うことが辛い。貴方より私の方が好きだと罵られるのが嫌。だから私はファン垢を作るのを止めた。

私は『同志との交流』を遠ざけた。


しかし私は表現を見る側ではなく、する側になった。同じように表現者として自分の考えを発信する人はたくさんいた。

140字小説を知るために、Xで検索をかけて調べた。すると一生かけても見れない膨大なツイートの数。
その中で私の好きなものや、参考になる文章を書く人が何人もいて、何人もいいねして何人もフォローした。

私の視界がどんどん開けていく感覚を覚えた。

フォロワーさんや、フォロワーさんのいいねやリポストで流れていいねをしてくれる方のおかげでインプレッション数が増えたり、いいねが増えたりするのが嬉しくなった。
そしてまた同じように創作をしている人のアカウントに飛んで文章を見に行く、参考にする。

この繰り返しが、今までの私には無かった心の安らぎになっている。

この描写が素敵だな、この書き方は上手いな、だけではなく、ただ好きだけで見れる作品もたくさんあった。

私が思っていた『同士との交流』は、自分の好きの押し付け、過干渉、奪い合いなど、どこで受けたのか分からないような偏見を持っていた。

でも言葉を扱う創作になった今。
私の交流は文章に包まれながら、これも良いあれも良いと、どんぐりやら松ぼっくりやら木の枝を家に持ち帰る子どものように拾っていく。
これがなんと楽しいことか、今まで気付かなかった。

好きなことを好きと言うのに抵抗があった。それはアンチや否定意見が嫌なのではなく、上より上がいると思うのが嫌だったからだ。

でも創作はまた違う。
新しい芽をそれぞれ用意していて、勝手に「育ちますように」と願いながら勝手に水をやる。

素敵だ。
私が好きなものを好きといえる空間はこれなんだ。

視界が開ければ、また色々なものに出会える。
とても素敵だと気付いた。

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