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もしも次の人生を自由に選ぶことができるなら


「もしも生まれる国を自由に選ぶことができて、好きな人生を歩めるんだったら、次の人生はオーストリア🇦🇹で羊飼いとして生きたいなぁ・・・」

と、思わずつぶやいた。

時は、むかしむかし20年近く前。僕がまだ30才ちょっとくらいだった当時のこと。

奥さんと日本からヨーロッパへ旅行に行って、オーストリアを走る鉄道の車内でのことだった。

目の前の車窓を流れていく景色は、アルプスの山あいの牧草地。雨上がりにキラキラと光る湿った草が、どこまでも続いていた。時折り、一群の牛。そして、草を食む羊たち。

当時のイメージ写真

僕はそもそも自然が好きで、特に山では飽きることなく佇んで風景を眺めていることができる。しかも、そのとき僕の目の前に広がる初めて眼にするアルプスの雄大な牧草地は、この上なく魅力的なものに見え、自分の心の中へ、いや魂の中へ風景が染み込んできた。

そんな自然を思う存分満喫できる生活。それがオーストリアで羊飼いをする人生にあるのなら、それ以上望むことはないだろう。

他に生まれたい国があるか?他に望む人生があるか?

そう自分に問いかけて、頭の中で地球儀をゆっくりと回しながら、自分が次に生まれたい国がないかザーッとスクリーニングしていった。けれども、目の前の場所を超える魅力ある場所は思いつかない。

当時でも僕は、ある程度は世界を旅行していた。アジア、ヨーロッパ、中東、南米、豪州・・。だから世界の国々の様子は、薄いなりになんとなくは知っていた。でも、目の前に広がっているアルプスの牧草地以上に、僕が人生を過ごしたいと思える場所は思いつかなかった。


「いや、やっぱりどう考えても、自分で好きに次の人生を選ぶことができるなら、オーストリアで羊飼をやってるわ」

と、奥さんに改めて意思表明してみたものの、奥さんは「また夢見がちな話がはじまった」と取り合ってくれない。いい案だと思うんだけどなあ。

いま、他の選択肢を考えてみる

そんなことを考えてから、はや20年近く生きてきた。その間にドイツで8年生活したり、世界の国もこれまで合計で60ヵ国ほど旅行した。

むかしインド人の同僚から言われたように、人生とは「経験を積んで『自分が何をすれば幸せになれるか』を見つけ出しながら、自分で自分の魂の幸せを追求する旅」を意味していると思う。

僕はこの20年近くの経験を経て、いま改めて考えてみると、どの国でどういう人生を歩みたいだろうか。他の選択肢をいくつか考えてみた。

(1) 欧州でジャーナリスト

僕はnoteの記事で書いているように、世界のいろんな国で現地の人たちの話を聞くことが大好き。人の話を聞いて、その考え方を理解したり、物語を追体験することほど、他に僕にとってワクワクすることはあるだろうか。ドイツで色んな人の話を聞いてみて、そして色んな国を旅して現地の人の話を聞いて、そのことを理解した。

それって、要はジャーナリストになったら満たされるんじゃない?と思い至って、そういう人生も悪くないと思った。生まれる国はやっぱり欧州かな。あれほど多様な文化が混ざり合いつつ、でもそれぞれに粒が立っている地域を、僕は他に知らない。

うーん、考えただけでワクワクする。

エストニアの政治集会の写真。例えばこんな国でいろんな人々の話を聞きたい

(2) イタリアでボートの船長

ヨーロッパで生活するまで全然知らなかったんだけど、イタリアには夏の素晴らしい過ごし方がある。

ボートに乗って岸辺の浅瀬に停泊して、そこでのんびりしたり、暑くなってきたら海に飛び込んで泳いで潜って。泳ぎ疲れてきたら、またボートに戻ってのんびりとした時間を楽しんで。

そしてボートの上では、ブルスケッタとかイタリア料理のおつまみを食べて、発泡ワインを飲んでお喋りしたり。

必ずしもイタリアに限った文化ではないけれど、イタリアが最も盛んなんじゃないかしら。

この過ごし方が夢のように気持ち良い。これこそ地上の楽園で、僕にとってヨーロッパの山とイタリアの海は「この世の天国」の双璧を成す。

しかも、イタリアと言えば世界から旅行者が集まってくる。ボートの上に人生を浮かべ、世界の人たちと話をする毎日を過ごすなんて、夢の中で生きる心地かも。

こんな文化があるって全く知らなかった

(3) 世界のどこかで教師

「分かりやすく人に伝えて、人生を考える」ことが好きな性分なので、学生の頃から教師になることも考えていた。

でも「社会人をしていない人が教師をして、社会人を生む仕事をする」っていうことが、自分としてはあまりベストな構図に思えなくって、まずは社会人になろうと決断した。そしてこれまでのところ、教師にならないまま生きてきた。

いちおう学生時代に教員免許を取って教員試験に合格したから、あのまま教師になっていたら、どういう人生を歩んでいたのだろうか。

そして今でも、教師はたしかに気になる仕事。ただ、今までの経験を活かすなら、教師というよりは、もうちょっと教育の仕組みとかに関わる仕事の方が良いかな?職業人生を終える頃には、これまでの社会人の経験を活かせるような教育に関係する仕事に就くのはどうかなと、ほんのり考えてみたりする。

いま決めるなら

さて、そんな新しい人生の候補が出てきたけれど・・、いま選ぶとしたらどの国のどんな人生を選ぶだろうか?

うーん。いま考えると、2つのうちのどちらかかな。「欧州でジャーナリスト」か、または変わらず「オーストリアの羊飼い」。

「欧州でジャーナリスト」は、飽きない気がする。若いうちはいろんな人から話を聞いて。40才台くらいからは発信に軸足を移して。うん、心からワクワクする生き方だ。自分が若いうちは全く考えもしなかったけれど。

「オーストリアの羊飼い」も、やはり今でも魅力的。あのオーストリアでの経験の後、実際に100回近くドイツで登山をしてみた結果、改めて山の自然ほど自分の魂が求めている場所はないと感じる。あの時の直観は、悪くなかったということだろう。

なお、「イタリアでボートの船長」は、僕は船酔いするから遠慮しておこう。海よりも山の男ということのようだ。

あと「世界のどこかで教師」は、それだけを職業として生きるには、自分としては物足りなさを感じる気が。自分自身のメインの生き方があって、その上で教育をサイドディッシュとして取り組むのが収まりがいいような気がする。

ということで、ジャーナリストと羊飼い。全然違う性質にみえる生き方だけど、それぞれ僕の魂が求めているものに思える。

この二つの生き方の共通点はなんだろうか?なぜ僕はそれぞれに惹かれるのだろうか?

その答えは今は見つかっていないけれども、これからの思考の材料(Food for thought)として、咀嚼しながら答えを探していこう。

人生と仕事と

一つだけ補足を。この記事では「人生」と「職業」が同じような意味で出てくる。

その理由は、以前から記事やコメントで何度か書いているように、僕にとっては「人生」と「仕事」は重複している部分が非常に大きい。昔から、仕事を通じて自分の興味あることを経験したり考えたり試してみる。なので、仕事と趣味と人生の区別をつけることが困難。

ワーク・ライフ・バランスが叫ばれる世の中だけれども、僕の中ではもともと仕事は人生を味わうための主要な要素の一つ。ということで、人生と職業を区別して使うことができないために、同じような文脈で使っている。

まとめ

さて、今回は僕にとっての「もしも生まれる国と職業を自由に選ぶことができるなら」を書いてみた。

この問いへの答えには、やはり個人の価値観の最も根幹にかかわる部分が現れてくる。

僕は、生き馬の目を抜くような資本主義の競争の世の中には興味がなく、それよりも僕の魂は、人と交流することだったり、自然の中で「いま、この時」を感じて過ごすことだったりを何よりも求めているんだろうなぁと思う。

はい。ということで、あなたはもしも生まれる国と人生を自由に選ぶことができるなら、どんな選択をしますか?

by 世界の人に聞いてみた

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