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理屈で説明できない事は、決しておかしな事じゃない。『プープーの物語』

「電波系」という言葉が使われ始めたのは、村崎百郎をはじめとする、鬼畜カルチャーが流行っていた90年代のことだ。普段、我々が思考する際の枠組みである(原因と結果から導かれる)因果関係によるモノの理解とは全く異なった方法での、認識を可能にする、特別な思考様式を持つ人たち、つまり、「理屈には収まり切らない人たち」のことを示した言葉だ。当時は、そんな人たちの事を面白おかしく取り上げる文化があったわけだが、この『プープーの物語』を観ていると、それが全然おかしい事ではないように思えてくる。本作は、2013年に『船を編む』の脚本を務めた、渡辺謙作がメガホンを取り、1998年に劇場公開された、ファンタジー、ロードムービーだ。前年の97年には、原將人監督の『20世紀ノスタルジア』が公開されている。本作同様、この『20世紀ノスタルジア』も「ファンタジー+電波系」といった組み合わせになっており、同時期にこういった時代背景の中から、ある種、兄弟とも見てとれる作品が生み出されたことは興味深い。フウとその友達のスズが、元交際相手とされる、木嶋という男の元へとヒッチハイクで車を拾い会いに行くのだが、途中で、気が変わり辞めてしまう。そして、連れていた子供、プープーをベビーカーごと、草むらに置いていってしまう。先ほども挙げたことだが本作は、普段、我々が使っている、因果関係では理解する事ができない事態が次々と起こる。車に乗せてもらった、男たちが、スズに手を出そうとすると、フウが守衛になり、男たちをぼこぼこにする。フウは青空に吹き上がる血飛沫を見て、昔、庭のプールの前で、スズから聞いた、好きな色が青だという理由を思い出す。そして、「青に赤が映えるから」と答えるスズが青いビキニ姿で胸にイチゴを当てている映像が映される。車に乗せてもらった、プロゴルファーの男との食事中、3人で写真を取ることを持ちかけられ、フウが、車にカメラを取りに戻ると、2人の姿が見えない。皿のハンバーグには、フォークとナイフが、刺さっている。フウはトイレで男を見つけ出すと、すぐさま、ぼこぼこにする。そして、倒れた男の頭にはナイフとフォークが突き刺さっていた…
このように、特に、映画の前半では、イメージの連想が多用されている。そのほかにも、木嶋が、トレーニングしている所へ妻と子供がやって来て、妻が「部屋が臭い」と言うと、子供が「うんこ!」と叫ぶ。場面がある。そして後半部分になると、今度は出てくる登場人物が支離滅裂になっていく。自分の子供を奪われたと主張し、スズとフウを襲う、イルカとゲスオや、車のトランクから突然現れる、謎の少年トランクマン、盲目の殺し屋ジョージなど、みな訳がわからない。しかしながら、実はそんな事はないのだ。これは、フウとスズの関係を見ていれば、決して、おかしな事ではないという事がわかってくる。前置きが、長くなってしまったが、本作の主題は、恋愛だ。フウはスズに対して思いを寄せているのだ。言うまでもなくいが、恋愛というのは、理屈でするものではない。恋は「考える」ものではなく「落ちる」ものだろう。一度でも、人を好きになったことのある人ならば、周知の事ではないだろうか。重要なのは、フウとスズは同性同志だという事だ。友達ではなく、恋愛感情があることを、どう理屈で説明できるだろうか。「好きになってしまったから、好きになってしまった」としか言うことはできないだろう。これは、トートロジーと、同じだ。「何でこれがいいの?」「これがいいから。」実は、こういう理屈にならない事というのは、いっぱいあるのだ。だから、なんでもかんでも理にかなったことが全て正しいわけではない。映画では、ほぼすべての登場人物たちが、銃を持っており、争いが絶えない。まるで戦争状態だ。なぜならば戦争も、理屈があって起こるわけじゃないからだ。何かきっかけになる出来事があったとしても、人が殺し合うのは、理屈ではない。感情も同様だ。怒りは理屈ではどうにもならない。だから戦争はなくならない。この映画、『プープーの物語』を観ていると、ガラッと価値観が反転させられる。理屈で説明できない事は、決しておかしな事じゃない。そんなことが、理屈によって語られているのだ。


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