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「クソジジイ」の語るに足る人生―「老ナルキソス」と男性性

こんばんは、烏丸百九です。
キングクリムゾンを喰らったのでいきなり月末に飛んでしまいました。更新がなく、申し訳ありません……。

先日、限定上映にてようやく映画「老ナルキソス」を見てきましたので、自分なりの感想を書いてみようかと思います。
性質上、ソフト化されていない作品のネタバレとなる他、ゲイ差別などの問題に触れていますので、閲覧にはご注意ください。

私は「シスジェンダー・ヘテロセクシャル・男性との性交渉経験なし」という、(一般的には)”非ゲイ”側の属性を持っているため、良くも悪くも自分の立場に引きつけた感想になると思いますが、あしからずご了承ください。また、敬称は基本的に省略してます。


”ナルシストのクソジジイ”の(意外に)ダンディな顔

「老ナルキソス」より、主人公・山崎薫。

「ジジイ」というのは多分に高齢者への蔑視的視線を含む、エイジズム的な言い方だが、「クソジジイ」のイメージを映画的に具現化するなら、田村泰二郎演じる主人公・山崎薫はまさに「クソジジイ」的なキャラクターをしている。
傲岸不遜で傍若無人、自己中心的で我が儘、自分以外の他人を基本的に見下しており、女性も若者も内心で憎んでいる……そのうえ「風俗店の熱心な利用者」だとくれば、おおよそ擁護することが難しいタイプの「日本の悪いオッサン」の類いに見えてくるが、山崎の特異性は彼がゲイであること、また(それゆえの)深い孤独を抱えた天才的な芸術家であることだろう。

山崎の担当編集者・荏子田。(演:千葉雅子)

山崎の身の回りにいる(映画内のネームドキャラとしても)唯一のシスジェンダーの女性である編集者・荏子田はそんな山崎に「貴方の恋人は貴方しかいない。その恋人が貴方を作家たらしめている」と説諭し、スランプの絵本作家である山崎に何とかして新作を書かせようとする。そんな荏子田を山崎は「酷い女」呼ばわりしつつ、露骨にミソジニスティックな態度を取るのだが、内心では彼女の指摘の正しさを認めているようにも思える。

山崎の「男としての力」を支えているものは幾つかあるが、そのうち大きな二つは①作家としての名声と②(過去の成功による)有り余る金である。山崎は自分が若い頃の「才能」や「美しさ」を失ってしまった事を嘆き悲しみ、「作家・山崎薫」のファンであったウリセンのレオとの情交を通じて己のナルシシズムを満たそうとするのだが、「ゲイの偏屈で孤独な老人」という一見すると(家父長的な日本社会の中では)極めて周縁的な存在である山崎が、レオや荏子田に対してはいっぱしの「有害な男性」として振る舞い、またその「男としての力」が、(本人が心の底で望んでやまない)「家族」を得ることが出来なかった事実から生まれている―彼の孤独が癒やされれば作家として天才を発揮することはなかったかも知れないし、金の大半は養育費に消えていたことだろう―ことに、「老ナルキソス」の(社会風刺劇としての)作劇のおもしろさとオリジナリティがある。
彼の(孤独さから来るのであろう)差別主義やマッチョイズムが、しかし家父長主義の世の中で「孤独なゲイ」を死に至らしめることなく生き延びさせてきたとしたら、こんなに皮肉な話もないだろう。

単に「天才的なゲイの作家」などと書くと、ステレオタイプで漫画的なキャラクターを思い浮かべてしまうが、こうした背景の奥深さを感じさせる演出と脚本、田村泰二郎の演技力、そして何より東海林毅監督の超オシャレなセンスが作品の説得力を補強している。「クソジジイ」である山崎のファッションやダンス、乗っている車がいちいち格好良く、「こんなオッサンが親戚にいたら楽しいのでは?」とさえ思わせてくれる。本当の父親としては最悪の人物だけど。

ゲイとファザー・コンプレックスの不思議な関係

「老ナルキソス」のもう一人の主人公・レオこと恭介。(演:水石亜飛夢)

「老ナルキソス」のパンフレットは往年のゲイ雑誌? を再現したものだそうで、超豪華な執筆者による作品解説や監督インタビュー、小ネタなども充実したファン必見の内容になっているのだが、その中で興味深かったのは有名ゲイ作家のもちぎ氏と東海林監督の対談中で、「年上を求めるタイプのゲイは母子家庭が多い」という言及があったこと。
作品のもう一人の主人公であるレオこと恭介は、幼くして父親を自殺で亡くし、母親とは折り合いが良くなく、恋人の隼人や客である山崎にも、共通してどこか父性的なものを求めている……という、典型的なファザー・コンプレックスを抱えたキャラクターなのだが、脚本のために「作られたゲイ像」というよりは、実際に当事者にこういう人が多い、ということらしい。

確かに「ファザコン」という要素がないなら、しっかり者の隼人はともかく、「クソジジイ」の山崎に恭介のようなイケメンが(客とボーイという関係が大前提とはいえ)心情的に惹かれていくのは有り得ないよな、と(非ゲイとしては)なんとなく思っていたのだが、実際にそういう例が多いというのは不勉強にして知らず、意外だった。

少し自分語りをすると、私も父親との仲が無茶苦茶悪く(民事で裁判沙汰を起こしているレベル)、現在はほぼ絶縁状態(註:父が家から出ていきました)なのだが、私にとって「父」はあくまでも「父」であり、男として「コンプレックス」を抱く相手ではあっても、性欲の対象では有り得なかったので、性的指向が違うと(同じような体験をしていても)思考やメンタリティに与える影響が全然違う、という(当たり前だが普段あまり意識しない)事実を再確認する。

私自身について言うなら、自分の「左翼的な傾向」「反家父長制/反権力志向」などに「ファザコン」は確かに影響を与えているかも? とは思うが、ヘテロセクシャルの男性であっても、恭介のように他者へ「父代わり」を求めて、やがて「(代理的な)父」へ順応していくタイプの人間もいるのだろう。
典型的なエディプスコンプレックスのモデルに例えるなら、「父の不在」があったときに、「父を求める」人間は保守/右翼になり(自ら家父長制に組み込まれる)、「父と戦う」人間は革新/左翼になる(家父長制とバトルする生き方をする)……なんて傾向はあるのかもしれない。
ただしゲイパーソンの場合、父が欲望の対象でもある時点ではヘテロセクシャルの女性と共通するわけで、単純に「男性性モデル」に当てはめることは躊躇われるけど。

恭介のエライところは、最終的に「父のようなもの」である山崎の愛を自己中心的なものとして退け、隼人との対等な関係(パートナーシップ)を選ぶところだろう。
家父長制国家から結婚を禁止されているゲイパーソンにとって、当然ながら養子縁組は選択肢のひとつとして保護されるべきだと思うが、それでも恭介のような青年は誰かの(疑似)息子になるべきではないと思うので、現実の困難を思いつつも、この物語の結末は「ハッピーエンド」だと(非当事者として)感じた。

クィアは死ぬべきではない

「ハッピーエンド」といえば、「老ナルキソス」の作品としての最大の美点は(パンフレットで映画評論家の児玉美月氏が指摘するとおり)、「ゲイの偏屈で孤独な老人」という強く死の影が漂うテーマを書いておきながら(ご丁寧に「難病」要素までブレンドされている)、結局最後まで山崎の「死」を描くことなく、その(自分勝手で奔放な)生/性を肯定し、ポジティブに物語を締めくくる点だろう。

最近も有名なクィアタレントが亡くなり、LGBTQやアライの人々は大きなショックを受けたばかり。
これは(シスヘテの端くれとして)声を大にして言いたいのだが、クィアは死ぬべきではない。何故なら簡単に死にすぎだからである。「一応は」平和主義が保たれている現代日本において、「老人」と「クィア」ほど強く死の影に襲われている人々もいない。それは(暴力的な)体制の責任であり、社会の負の力の作用でもあり、かれらが死ねば死ぬほど、その他のマジョリティの「負債」は激甚に膨れ上がっていると考えた方が良い。

社会的に周縁にある人々に「負債」を押しつけ、中心に近い人々だけが生き残ろうとするのは、「蜘蛛の糸」的なディストピアであり、結局のところ誰も幸せにはなれない社会である。
自らも暴力的な男性として振る舞いつつも、己を「異物」として排除し続けた社会を山崎は憎み、同性婚について「家族ごっこなんか!」と言い放つが、恭介は「外国ではそんなこともないみたいですよ」と反論する。日本の旧弊的な社会モデル自体を変えなければならない局面に、時代が差し掛かっているのは明らかだ。
本作のラストで、恭介も山崎も、(形は違えど)お互いに排除することなく、新しい世界に人生を生きていくことを選んだ。それを作家からの希望の表現としてとらえていきたい。

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