最後のひとくちが食べられない1ー生きている実感
物事の終わりがツライ
それが習慣になっている
自ら何度も終わらせている就職回数のことは
一旦保留にさせてくれ
気に入った本を読んだことがあるひとなら
わかるよね
(学術系じゃなくってストーリーのほうね)
大好きで面白くって続きが気になって
グイグイ引き込まれる本に出会えたとき、
本当に感動して、作者とその親に感謝して、
ついでに編集者と出版社に感謝して、
参考文献にもこれまた感謝する。
その本を読み終わるのが途方もなくツライ。
どれだけツラいかというとツラさのあまり
最後数十ページほど残して○年放置するぐらいツライ。
大大大大大好きになっちゃったものが
終わりを迎えるのが、
そして主体的に終わりに向かって
ページをめくらなければならないのがツライ
(池上永一さま、本当に申し訳ございません。そのような貴殿の書は手元に複数ございます。定期的に執筆してくださり恐悦至極。『最後まで読まないくせにクソが』って罵倒してください。愚生がサーチ出来ていないだけかもしれないのですがブログは書かれないのですか、切にお待ち申し上げております)
だって大好きなんだもん、
終わりたくないもん!
読んでるときがたのし〜んだよぉ
(呑み屋で店閉まるのに帰らないヤツみたいだ)
そして、これは共感されないどころか
たぶん非難を喰らうやつだろうことは
分かるのだが、
美味しいご飯を食べたとき
いや、美味しくなくても
ご飯を食べ終わるのがツライ
(食に関しては他にもこだわりがあるのだが)
最後のひとくちを残してしまう
食べられないわけじゃない
なんか、なんでだろう
途方もなくツライのだ
きっと食べ終わってしまったら
その皿は虚無だろう
そして私もまた虚無だろう
この世と繋がる接点が無くなってしまう感じ
まだ食べ終わってないんだから
『ストーリー』は続いているのだ
そして私はまたしてもしがみついてるのだ
カレーライスの最後のひとくち
ハンバーグの最後のひとかけ
コップの底にうっすら残ったお茶
これらは自分の生きてる証であり
生命活動の途中であり
視認できる私の現在進行形(ING)だ
ーーーーーーーーーー
現在は外では残さないように食べるし、
家では誰に何も言われず自由にできる
昔は違った、
『出されたものは残さず食べろ』だ
お母さんはよく言うじゃん
『世界には食べたくても食べられない人が
たくさんいるのよ』って
聞き飽きたよソレ
ほんなら、その人たちにあげてよ
私はもうココロもオナカもイッパイだよ
周りは食べろというし、
睨んでくるし、
でも食べられないし、
どうする?
さあ、どうすればいい
小学生の私は考えた
『これはお地蔵さんにあげるモノなんだ』
食べたくても食べられなくて無念のまま亡くなった人がこの銀河に無数にいただろう
空間に漂っているその存在たちのために
私は最後のひとくちを残しているんだ
即ちこれは善!!
私は新興宗教の開祖となった
(断っておくが幽霊とか見えません)
推測なのだが、これは合理化というのだそうだ
合理化とは精神防衛本能の一種だ
受け入れられない現実に対して
納得できそうな理論を構築する。
本人はいいかもしれないが周囲は当惑するだろう。ただの頑固に見えるだろう。
う〜ん、離人症になるだけの素質を感じる。
こうして私は新興宗教を確立し、
自己の行いを正当化し、
自己の葛藤は回避したが、
怒られるということは乗り越えられなかった。
大人だってニンゲンぽいものを彫った石に
まんじゅうとかオニギリとかおいてるだろ?
あれと同じ行為だ
あれは野良猫かサルが持ってかないかぎり
捨てているんじゃないのか?
それは責められないのに私はなんで晩ご飯のたびに怒られてるんだろう
私は新興宗教の開祖なのに毎晩文句を言われる
そして今現在、私が残しているパンがひとかけ
私が動き出すのかどうかソワソワしてみている
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