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クッキー1つに10分かけて食べてみた

おはこんばんにちは。
とっくに2023年明けてますおめでとうございます。

カナダはウィスラーに滞在して2ヶ月が経とうとしているが、なんか1年くらいいるんじゃないかと思うほど濃密な日々を過ごしているしゅうへいです。

随分と久しぶりの投稿になってしまった。
つい最近友達との会話から以前の記事を見返すことがあり、その時考えたことや思いを文字に残すのは素敵だなぁと感じたため、また自分のペースでのんびり投稿していこうと思う。


自分探しになんでもやってみるは間違い?


自分の好きなことが分からない…
何が本当に自分のやりたいことなのか分からない…

よくこんな同世代からの声を聞くことがある。
それに対して「なんでもやってみる」ことを推奨する人もいる。

つまり、自分の好きなことや熱中できるもの、本当にやりたいことにまだ出会ってないから、出会うまでなんでもやってみた方がいいという考えである。
未来で、いつかどこかで運命の人に出会うはずだという希望を持って、白馬の王子様を手当たり次第探しに行くお姫様的感覚である。

その考えに対して僕は半分合っているし、半分間違っていると思っている。

上記に述べた考えでは、白馬の王子様はどこかこの世界に物質として確かに存在している、ということが前提になっている。

ただ、果たして本当に白馬の王子様は存在しているのだろうか?

今の自分で白馬の王子様だということに気付くことができるのだろうか?

白馬の王子様は見えるのだろうか?


"経験する"とはどういうことなのか


手当たり次第なんでもやってみる。
つまりそれは物事を"経験する"ということである。

人生何事も経験だとはよく言われるが、
その人は本当にその出来事を経験することができているのだろうか。

一歩俯瞰してみてみると経験には2つの側面があることが分かる。

1つ目は表面上の出来事としての経験

2つ目はその出来事を経験している人の心の動き、つまり内面の経験である。

例えば友達と2人でラーメンを食べに行ったとする。
ラーメンを食べた、というのが出来事としての経験である。
あんまり美味しくなかった、というのが内面の経験である。

表面上の出来事としての経験は友達の経験と同じである、いわば記号のようなもの。
しかし、内面の経験は友達の経験と自分の経験は全く異なることがほとんどだ。
自分は美味しくなかったと思ったが、友達は麺の小麦の香りが鼻に抜ける感覚が凄くて感動したと感じたかもしれない。

ここで大切なのは内面の経験、つまりその出来事を経験したときに自分がどう感じたのか、ということである。

なに普通のこと言ってんのって思うかもしれないが、ここからが大切。

では、あなたは自分がどう感じているのか、内面の心の動きに目を向けることができていますか?


注意の現代病


先ほどの例では自分と友達でなぜ内面の体験が異なったのだろうか。

もしかしたら、自分はラーメンを食べているときにスマホの画面を見ながら食べていたかもしれない。

どんなに美味しいラーメンでも、そのときの目の前のラーメンに意識を向けずに、Twitterで飛び交う誹謗中傷に意識を向けながら食べていたら、それは空腹を満たすためだけに食べるカップラーメンと対して変わらない。

昨年読んだ本の中で私的ベスト5に入る良書『限りある時間の使い方』(*1)の中にこう書かれている。

意味のある体験をするためには、その体験に注意を向けなくてはならない

注意を向けていないことは、起こっていないのと同じだからだ。

(*1) オリバー・バークマン、『限りある時間の使い方』、高橋璃子訳、2022年

つまり、誰もが羨むような素晴らしい体験をするとしても、注意の向け方によっては、なんの変哲もない記憶にも残らない体験にもなり得るということだ。


そこで近年のグローバル・情報化社会に目を向けてみる。

この社会の中では自分から情報を取りにいかなくても、いくらでも情報のシャワーは枯渇することなく自分に浴びせられている。

その最たる例がスマホだ。
スマホの中の情報は箱の中の情報であって、現実世界のありありとした、まるで生き物かのように複雑でかつ美しい情報とはまるで異なる。

いくら見ても箱の中には本当に自分が心躍るものはなく、ただスマホの画面を見ている自分の心は何も動いておらず冷めきっているのだ。

1つの四角い箱が自分用にカスタマイズした情報を勝手に提案してきて無意識的にそれを視覚で捉えて注意を惹き付けられている現代の人々は、もうすでに自分が何に注意を向けているのか、その自覚すら薄れてきているのかもしれない。


注意の対象は選択できる


なぜ100万人以上の人が命を落とし、生き延びた人はわずか200人未満とも言われているナチスドイツの強制収容所。
その過酷な日々をなぜフランクルが生き抜くことができたのか、フランクルの名著『夜と霧』(*1)の中にこう書かれている。

つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

(*1) ヴィクトール・E・フランクル、『夜と霧(新版)』、池田香代子訳、2002年

過酷な表面上の出来事としての体験は変えられない。

しかし精神的存在、つまり内面の経験だけは自分が注意を何かに向けると決めることで変えることができるのだ。


人生は注意の対象で決まる


過酷な日々の中で生き延びた上記のフランクルの言葉から学べることとは何か。

それは自分がその出来事を体験しているときに何に注意を向けているのか

それ1つで体験が丸っきり変わるということである。


ひいては振り返ったときの記憶の中での体験も変わるということである。

そしてそれは人生の質に直結してくる

人生の終わりに自分の人生を振り返った時にどんな人生を想起するのか。

つまらない人生だったなぁと思うのか、楽しい人生だったと思うのか。

自分の人生は自分が注意をむけた物事の総体である


すなわち、人生の質は自分が何に注意を向けてきたのかによって決まるのだ。



友達が自分に話しかけているのに何か違うことばかり考えていませんか?

家族と旅行に来ているのに1人で家にいるときでもできることばかりしていませんか?


記号として表面上の出来事を経験していくだけでは白馬の王子様には一生出会えない。

頭の中でそのいつかが来るのを想像して、それが実現しないまま一生を終える。


そうならない為には手当たり次第に探しに行く前に一歩立ち止まって、自分の心に目を向ける必要がある。

あらゆる経験をするのも大事だが、その前にその経験に注意を向けられる自分であることの方が大事でより本質的なのではないだろうか。



あなたはクッキー1つに10分かけて食べたことはありますか?


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