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【エッセイ】だれかに見つけてもらいたい、希死念慮と承認欲求

※希死念慮を扱う暗い話になりますので、影響を受けやすい方は閲覧をお控え頂けたらと思います。

雨の中 だれかに見つけてもらいたい、死にたい気持ちと承認欲求
#短歌

人生がどれだけうまくいっていたとしても、どうしても気分が暗くなる時というのはあるわけで、ましてや何もかもがうまくいっていない今、人前ですら泣きそうになってしまうのは当たり前のことだった。

数少ない友人は私がいなくてもきっと気にせず今まで通り生きていくのだろうと思う。それどころか、私はきっと邪魔者なのだろうということを実感している。

生活がうまくいかない。お金がない。楽しいことがわからない。

死ぬという選択肢がある、という状態が幼い頃からずっと続いていた私にとって、それでも今まで死なずにいたのは死ねないとわかっているからだ。

「ちゃんと死ねる」方法が見つからない

この記事を読んでくれている人の中には、自殺の方法を調べたことがある人もいるかもしれない。
調べてみて結局わかるのは「ちゃんと死ねる確率はそんなに高くない」ということと、「信憑性のある死に方はほとんど出てこない」ということ。
なんなら「自殺失敗レポ」なんてものまで出てくる。どんな自殺方法を試して失敗したのか、その結果どんな怪我を負ったかという内容が書かれているものだ。
確実な死に方はどこにも書かれていないのに、失敗する方法ばかりが明らかになっている。情報を探す能があるが故に、死ぬことが許されない。

勇気がないだけだ、と言うのならいっそのこと殺しにきてほしい。
失敗する確率が高いのに実行に移そうなんてどうしても思えない。
どこかでずっと私は冷静なのかもしれない。

実行に移せないからか、いつまで経っても病名はつかず健常者のままだ。
私の苦しみはきっと、私が死ぬまでわかってもらえないのだろうと思う。


大人を信用する必要はない

20年以上生きてきてやっと、最近になって、大人(=自分よりも年上で歳が離れている人)の言うことが必ずしも正しいわけではないと言うことに気がついた。

気づくのが遅かったと思った。けれど、気づかないうちに死ななくて良かったと思った。

私は信じたい言葉だけ信じればいいわけだし、私の気持ちを大切にすればいいだけだったらしい。


わたしの話 創作者としての価値観

自分で言うのも何だが、私は才能がある人間だと思う。

幼い頃は作曲で、学生時代は文芸で。今はTRPGシナリオという形で評価を得ている状態にある。

評価を得ることが全てではないとは思うけれど、他人から認められるということにはある程度の価値があるのだと私は思う。
というか、私は他人に認められることでしか自分に価値を見出せないという傾向があるように思う。

賞だったり、数字だったり。
その形は様々だけれど、他人から認められることで私はやっと私でいられるらしい。
その他人というのは、赤の他人でもあるし、家族であることもある。
近しい人から認められたからといって世界中から認められているということにはならないから満たされないし、逆に不特定多数から認められたとして大切な人から認められないのであれば私に存在価値はない。

極端な思考ではあるけれど、それが私だと思う。

「私が作りたいものを作る」というのは大前提として、私が良いと思って作ったものを、より多くの人に認めてもらいたいという気持ちはなにも異常なことではないのだと思う。

自己表現の一環として作品を作っている側面があるから、作品そのものが私自身であるようなものなのだ。
承認欲求の延長として、「作品=私」を認めてもらいたいというだけ。
他の創作者がどうなのかはわからないけれど、私自身はそうなのだと思う。


過去の分岐点

今でもずっと覚えているのは、音楽を辞めた時のこと。

父はエレクトーンを、母はピアノを弾くことができた。
そんな両親のもとに生まれた私は、幼稚園の時にエレクトーンを習い始めた。
そして、小学三年生の時に、初めて自分の作った曲の楽譜を書いた。

小学校四年生になり、私はエレクトーンを辞め、吹奏楽部に入った。
吹奏楽部では今の時代であったら大問題になるような酷い仕打ちを受けたけれど、それでも音楽を嫌いになることはなかった。

中学に進学した私は、吹奏楽部には入らなかった。
自分の楽器を買って、好きな曲を好きなように演奏するようになった。
簡単な音楽ソフトで楽譜を書きながら作曲をするようになった。

それからしばらくして、成長してからも私は作曲を続けていた。
そしてある時、SNSに上げたものがバズったのだ。
嬉しいことに私の曲を買いたいと言ってくれる人も現れた。

私は音楽を販売する準備をしようとした。
そしてそのことを、当時付き合っていた恋人に報告した。

「え、売るの?やめなよ」

それが彼の返事だった。

当時の私は彼の言うことが全て正しいと思い込んでいて、望んでくれている人がいたにも関わらず、音楽の販売を簡単に諦めてしまった。

同世代の人間や若い音楽クリエイターが活躍しているところを見ると、どうしても「あの時活動を続けていたら今頃、私ももっと違う人生を歩んでいたのかもしれないのに」と考えてしまう。

当時は生活しているだけでフレーズを思い付いていたのに、今はもう何も思いつかない。きっと私の才能は消えてしまったのだろうと思う。
こんな状態で、また音楽を志そうと思えないのだ。


おわりに

やりたいことはやりたいと思っているうちにやるべきだと、本当に実感している。

本当はもっとたくさん音楽を作りたかったし、短歌の本を出したかったし、もっとたくさんTRPGシナリオを書きたかった。

希死念慮に押しつぶされて、何もかもやめたいと思ってしまう。
後悔ばかりで死んでしまう。
もっとうまく生きていたかった。

臆病で聡明な私はきっとこれからも、死ぬことができないのだと思う。
下手くそなりに足掻いていくしかないとわかっている。

きっと私は創作活動を続ける。
そうすることでしか存在意義を確認できないし、ストレスを昇華できないから。
現に今も、こうして文字にすることで少しだけ気持ちが落ち着いた。
この文章を書き上げた私は多分、強いから死なない。安心して欲しい。

これからの私の生き様をどうか、どこかで見守ってもらえると嬉しい。

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