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私の世界とチューニングが合わない人がいてもいい

今日は現代詩演習という短歌の授業で合評が行われた。

これは、匿名の短歌に赤と白の軍団に別れて半分は褒めて、半分はdisるという歌合スタイルだ。
私が今回『学校』というお題で出したのはこれだ。

写真詩集秋『蛇行する夕焼け』にも掲載したものだ。

歌合であるから、2つの短歌からどちらが良かったかを多数決で決める。(本来のルールとは違うけれど)

私には私のライバルの短歌は全然良くないように見えた。短歌としての形も詩情もいいものとはいえなかった。
だけど、私は1票差で負けた。

とても不思議であった。
なんなら、満票で勝ちでもいいのでは思うぐらい私は私の作品が好きだ。

前回の授業で今回の詩は配られていたのだが、同期の男子にこんなことを言われた。

「クラスの半分が共感出来ない話を書くなよ笑笑」

これは確かにそうだ。
クラスの半数は男子であり、生理を体験したことがない。生理を体験した事がないということは、生理にまつわる感情やエピソードを知らないということである。

私は選ばれなかった。

それは、私が否定されたことだ。

そう思っていた。
だから、合評は嫌いだった。
無知な人が適当に嫌いという合評というものが大の苦手であった。

だけど、そうじゃない。

私は私の世界を描けている。
それは私にとっては当たり前のことで、ありふれた事だけどそれが私にとって重要なピースとなっているからこそ、短歌になる。
生きたものを詰め込んでいる。

そして、その作品を分からない人というのは、私の世界と重ならない人生を歩んできた人なんだ。
その人が悪いとは言わない。
私が悪い訳でもない。

ただ、チューニングが合わなかっただけだ。

どんなに優良な番組でもチューニングが合わなければノイズでしかない。
どんなに流行っているものも好みは分かれる。
賞を取ったものですら、賛否は必ずある。

価値観の違いでしかないんだ。

文法や日本語の誤用などはもちろん訂正する余地はあるけれど、
私の見てる世界自体を訂正する必要は無い。

私の見えるものを私は言葉にして、
それを求めてくれる人がこの世界には思っているより多くいる。

もっと広い場所にいけば本当に意外な程に私の作品を良いと言ってくれる人がいるんだ。

演習の授業なんてたかだか20人程度の話だ。
言葉が通じないほどではなくても、
もっと簡単なものや難解なものが好きな人がいるし、本当にアンテナが違う人だって多くいる。

そんな人にも届くような文章をかければいいのだろうけれど、
それはきっとプロにも難しい。
100人いたら100人が違う人生を持っている。
私の想いの中で、その中の最大公約数を描ければいい。

短歌はより、『私の世界』だけの世界だ。
批判が怖かったけれど、私の世界は汚くない。
私の見る目は悪くない。
ただ、この学校のここにはそれを、求めてくれる人が少ないだけ。

もう怖くない。

私は私の作品が好きだから。

きっと、私の世界を好きになってくれる人は沢山いるはずだ。その人たちに届けるために頑張るのが人生なんだと思う。
届かせよう。
洗礼された私の世界を作りあげて。

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