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政治と宗教について


議員の任期が終了したので、公人としては出しにくかった内容や
とりとめない私感も綴っていこうと思います。
ということで、最近ホットな話題なんですが
#未来のためにできることというタグもあったので、
未来のためにも書いておきたいと思います。


政治と宗教についてですが


小さな町の議員選挙に出ようとした無名の私ですら、
新興宗教団体の組織票を貰いませんかというお誘いをいただいたことがありました。

また永平寺町は永平寺という寺社名称を町名として冠している珍しい地方自治体ということもあり、議会の中でもたびたび政教分離がテーマになったことがありました。


最近巷間を賑わしている政治と宗教の問題についても
都会で起きる問題というだけではなく
地方でもあるある問題です。
また一地方でこれだけあるっちゅうことは
日本全国の地方でも同様だろうと思います。


選挙と新興宗教

組織票の甘い誘惑



それは保守系ではない地方議員さんからのお話でした。
立候補者説明会に参加した頃、私は完全無所属の立場だったので。
200票はもらえますよ、おうちのお仏壇の横に違う祭壇を置いて、ちょっと違うお経を時々唱えてくれればいいんですよって言われ方をしたように思います。

こういうことは保守・野党関係なく
どこにでもあることなんですね。
多分市町によってどの宗派勢力が強いかということも影響するのだろうと思います。

200票というと、うちの町ではかなり楽ができる票数です。
以前にもそういう票を得て議員になられた方の噂も耳にしていたため
やはりそういう方はいらっしゃるのだなあと感心しましたし

特定の候補者に入れることを強制する宗教団体って存在するのだなあと実感しましたし

なるほど1000票2000票レベルで票を集めないといけない方は
どんな論客としても、そういうところを飲み込む必要があるのかなあ?と

諸々、社会勉強のつもりでお話を聞かせていただきました。


断るターン



そんなわけで私は無所属立候補者としての選挙を戦う方法を教えてもらえるのかなと思っていたので、そういうお話がまずあったというところで、まあ現実ガチもんだなあ・・・ということを感じつつ、次の2点の理由をもって丁重にお断りさせていただきました。

①自分の言葉がどれだけ響くかを見てみたくて出馬するのに論外だろ

②仏教色の濃い福井県の文化の中で生まれ育ち、それを大切にして地域と人間関係を築いてきている私にそれを求めるのは論外だろ

そんなのお断りじゃいという自明の理というのはあるわけですが
それは相手方も分かって言ってるので別に言いません。

私が訴えかけたいのは人口18000人分の200人ではなく、18000人全員です。そして大部分の人は同じ福井県の地域文化を分かち合って生きている人たちです。
なにをもって特定の有権者のコミュニティにわざにはいらにゃならんでしょうか。200人も支持してもらったらほぼそこの代表になっちゃうじゃん・・という気持ちでした。

「にわか出の新人が甘いことを考えてはいけない、清濁併せ飲むことも大事。選択はもちろんご自由やけど」ということもご指摘いただいたように思いますが、結果を考えるとやっぱり自分を貫いて大大大正解でした。


そんなところに立脚して選挙に勝ったとしても、
議員になってから活動に支障が出たでしょう。
ほんとうにその地元に生きて地元を支えている大切な方々からのご指示を得られなくて。

自分の活動報告会も出陣式も、要望団体もみんな組織の人のお手伝いがなくては議員活動が維持できなくなるでしょうね。依存のスパイラルでずぶずぶです。


宗教は選挙の注意点のひとつ


そういうことで、地方選挙出られる方も地方選挙で投票される方も
重々気を付けられるとよいと思います。

そういうお誘いは抜け目なくやってきます。

この方は信頼できるのかなーってイメージを持っていた方でも
現実はこうかーっていうことはいくらでもあります。


新興宗教団体の組織票はもらわないで勝てるならそれに越したことはなく、
それで勝ててこそほんとうの勝利です。
不特定多数の有権者の方にきちんと訴えかけてご支持を得ることが
健全な民主主義を守ることになると思いますが
青臭いでしょうか?不可能でしょうか?


気を付けられて遮断されてる方はちゃんと遮断されているし
大丈夫だろって判断されて飲み込んでる方は飲み込んでるでしょう
どうしても飲み込まなきゃならない立場の方もあるでしょうが
それは容易に見た目からはあまり分かりません。

投票される側の方は、もし本当に大丈夫かな?と心配な場合
選挙事務所に応援に行って推薦書や名簿を眺めてみたり
村の噂に耳を傾けてみるといいでしょう。

本人に宗教観を直接聞いてみるのもよいと思います。


カフェというのはそういう胡散臭い話を持ち掛けられがちな場でもあるんですよね・・


政治と宗教の関係とは


政教分離はまだ始まったばかり



宗教と政治の関係はどうあるべきでしょうか。
そしてこれまではどうあったのでしょうか。

私は哲学科だったので宗教学も学びました。
宗教学の先生は非常に厳格な方で、宗教の成り立ち、キリスト教や古代インド宗教思想、仏教の基本的な考え方というのを通常の授業の3倍ほどの密度で教授いただきました。

先生の授業は原始人の洞窟壁画や埋葬形態の話から始まりました。

人類は文明を持つ以前から故人を埋葬し花を手向けていた
そのことが宗教の始まりということです。

6万年前のシャニダール洞窟では埋葬人骨とともに花の花粉と破片が残っていたそうです。

そして人間が集団形成し社会を構築する中で宗教の権威が権力者の権威として活用され、宗教的権威が国家から分離されるに至るまでの過程を学びました。


人類史の中で社会を統治するために宗教的権威と国家権力が結びついていた時代は長く、政教分離ということを始めたのはごくごく最近です。

政教分離の理想的な在り方はまだ確立されたわけでなく、様々な揺れ動きがある段階であると思います。

人間が意識の中から信仰を除くには時間がかかります。
西洋哲学だって哲学と神様の存在の折り合いをつけるのに非常な時間がかかりました。
政教分離もおそらくそれだけの時間がかかります。

議員にも信教の自由はありますが、特定の宗教団体の権威をもって公権力とし、その力をもって人に強制することはいけません。
では何が強制となるのか、議員が私人として信仰することはどこまで守られるのか、それはその都度都度の議論です。

難しいですね。

お寺の中で法要を聞いている議員は私人であるのか?公人であるのか?
神社で初詣している議員は私人であるのか?公人であるのか?
一人の人間に対してどういう条件が付加されたら私人になり、公人となるのか。

様々な判例も出ていますが、法に照らしてその議論を何度も繰り返すしかありません。

そもそも宗教とは


そもそも宗教とは何かを振り返れば
先生がおっしゃっていた宗教の始まりが死者の埋葬であるということは
つまり
宗教は根本的に「死の解決」です。

縄文人やそれ以前の人類も
亡くなった人には花を手向けていました。

死体に魔物が入らないように体を折り曲げたり
朱泥を塗って埋葬する風習もありました。(諸説あり

大きな古墳では埴輪をおく不思議な習慣もありますね。

死への恐怖を克服するために、どの宗教でも、埋葬があり、祈りがあり、
教義があり、神様がいます。

現代人も亡くなった人があったら手を合わせて冥福を祈ります。
あるいは手を組んで冥福を祈ります。

食事の前には手を合わせます。
生を捧げてくれたものへの祈りです。


牛さんとか


しかし最近は政教分離ということで、
例えば激甚災害の被災地で埋葬を行う際に供養行為をされなかったり、
学校給食の前の合掌をとりやめるということもあるようです。

仏教の強制ということらしいのですが
合掌は神社でもやりますし・・・
埋葬供養や食事の前の祈りは、仏教に限らず、どの宗教にもある普遍的な行為です。

(宗教教育)
第十五条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。
 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

教育基本法 e-gov法令検索

学校給食の合掌については、教育基本法第15条を見ると、まずは宗教に関する一般的教養という意味で、先生方が宗教の起源と発展を教育していただけるとよいのではないかなと思うのですが、

そうした取り組みもあると宗教か詐欺なのかの見極めも学習できるのではないかとも思うのですが

宗教学って地位が低いんでしょうね。



また、以前は集落ごとに共同墓地がありましたが
今ではお墓が見つからないという相談をいただいたこともあり
自治体や自治会、宗教団体は墓地の提供は
民間や個人の事柄にしたい方向性なのだなという現実を
みたこともありました。

死体や遺骨の埋葬については法律で
厳しい取り決めがあるにもかかわらず
埋葬地については個人の問題というのは
人類は旧石器時代より退化してしまっているのかもしれないと
思わずにはいられませんでした。
(墓地はなんとか運よく見つけましたが)


「特定の宗教の強制」に拘泥するあまり

6万年前から行ってきた
単純かつ根本的な「死の解決」という普遍的行為を
現代の社会体制は徐々に失おうとしています。


意外によくできた習慣だと思いますが・・


「死の解決」の方法を手放したとき
人は個人で死という問題を消化できるのでしょうか。

精神を健全に保てるのでしょうか。


平気だよという方もいると思いますが
自分の死、伴侶の死、親友の死、子どもの死、親の死・・
どうやって人は涙を拭いたらいいのか、分からなくなってしまわないでしょうか。それとももうそんなに泣く時代じゃないんでしょうか。


死ということを個人個人が自分の思想で冷静に対峙できるほど
死を完全に解明できるほど
人類は文化的にも科学的にも成熟していないはずです。



そして死を祈ることにこそ人類という生物の特異性はあるわけですが
死への祈りを放棄することで、人は人であることを忘れてしまわないでしょうか。


心配しすぎでしょうか。


先史時代は洞窟壁画


人類は言葉と文字を獲得したことにより
集団を形成し
記憶力を増やし
記憶力を増やしたことにより
死への悲しみと恐怖を増幅し
持て余す感情を整理するために
祈り、歌い、踊り、詩作し、絵を描き
集団の輪の中で共有しあい
ともに泣いたり笑ったり手をつないだりすることで
消化を繰り返し、消化が昇華となって
それが文学となり芸術となり文化となり風習となりました。


人間は知能を持って集団を形成する生物である以上
言葉が手放せないことと同じくらい
祈りも手放せない生き物なのです。


そして集団維持と言語と祈りが密接に関係してきた以上
集団から宗教自体を完全に抜くことは難しい。


500年、1000年培われてきた宗教はなおさらです。

長い時間にわたり信仰が芸術や建築様式や民俗風習にまで影響を及ぼし、その国自体の文化にもなり、私たちの生活の基盤を大部分を作っているものに対し、行政レベルではしかし取捨選択を求めるようになっています。


茶禅一味なのに茶席で掛け軸外したら意味がないのと同じく


取捨選択のややこしさから、議員の中の一定数も
いっそ宗教的なことはいっさいなくしてしまったほうがよいと考えるのかもしれません。
それを失っても人間に問題はないと思うだろうと思います。

しかし現実、今の世の中に精神的不安を抱えている人がどれだけ多いことか。


信教の自由を認める憲法と法は
宗派にかぎらず、人類に対する宗教そのもののもつ意味や効能を認めるものであり
特定の宗教団体に特権や公権力を持たせることを禁止する意味で
公の特定の宗教の教育と宗教の活動を禁止するものだと私は解釈していますが(実際の憲法学の世界での解釈は知りません

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

日本国憲法e-Gov法令検索


もうすこし、根源的な宗教に対する学びや、宗教の展開の歴史や、伝統文化の成立を相対的に理解することを恐れず、向き合ってもらえないものかと思ってしまいます。

世界三大宗教、あるいは五大宗教は知識的に学習したほうが、海外に行ったときに多宗派の方への配慮を欠かずにすむと思うのですが・・

今の腫れ物の扱いのようなままではかえって、国民の学習機会を損ない、
宗教的意義を持つ宗教と詐欺的目的の宗教との見極めがつかない状態を維持するのではないかと思います。


宗教の見分け方


日本は古来、江戸末期までは宗教が混淆状態になった国でしたが
(明治に入って仏教はいっとき粛清されたので・・・)

現代は混淆ではなく混沌状態と言えるでしょう。

原因は定義があいまいだからなのですが

詐欺的目的の宗教といいましたが
宗教において何が詐欺となるかというと

・金銭の対価としてもらえると思っていたものがもらえないこと

・品物に見合わない高額な金額を請求していること

・それが生活者の人生が維持できなくなるほどの金額であること

などではないかと思いますが

宗教で得られるものとは、では何でしょうか。

日本における宗教団体はおおむね仏教を基本に考えられていますが
仏教の派生した古代インドでは当時
人生の真理を解明しようとする多くの修行者がおり
集中的に悟りを得ることができるよう修行できる環境を整備し
信者から寄付を求め
その寄付金で環境を維持し
悟りを開いたあかつきには
信者に悟る方法を教えて救済する。
という宗教団体の教団という形があったということで
この考え方が基本であると思いますが

つまり
金銭(寄付)の対価として得られるのは悟り(またはその方法)ということになります。


「宗教」はコトバンクなどで調べるとたいがい
神や仏や超自然的な存在への信仰」ということですが

神や仏も人間が生み出したものですから
そんな存在もはなからしない創作物をさもあったかのように
言葉の定義のあてにするなんておかしな話です。

どうして生み出されたのかを考えなければなりません。


神様仏様という超自然的存在の創作とは
「悟り」の方法・教えとして
金銭対価として提供されます。


前項でも説明したとおり
宗教の根本は「死の解決」です。

なぜ人は死ぬのか。なぜ人は存在するのか。
この真相はいったいなんなのか。
死ぬことは怖くないのか。

死という最大の恐怖を情報処理するために
天国や地獄や黄泉の国や
八百万の神様や
死後の救世主である神様や
現世の導き手となる天使や修行者や
そういうファンタジーが必要だったのです。
そして今でも必要とする人がいるわけですが・・

現世の導き手となる修行者がいる場合の宗教は
だいたい修行者が超越的存在とコネクトし、悟りを得て
悩める人迷える人に教えます。


宗教団体が金銭(寄付)の対価として与えるものは
この悟りと救済であり、
宗教団体の存在意義もまた同様です。

充分な悟りを提供できるかできないか
請求金額が内容に見合っているかいないかを
宗教の判断基準として、見切っていかなければなりません。


悟るとは何か


どの宗派でもたいがいそうですが
悟りは神様みたいな超越的存在と繋がって得るみたいな恰好をしています。

神々しいイメージだったり、難しいイメージだったりすると思いますが
世界5大宗教が作られたのってだいぶん大昔です。
日本で仏教が分派していったのも結構昔です。
500年前、1000年前、2000年前の話です。
引き算しましょう。

昔の宗教家が作った体系がものすごいものであり尊いものであり
一個人が批判できるものではないと思われがちだと思いますが

ひらたくかんがえて

現代の科学で成立している情報社会の中で生きている人間の知識と
当時の人の知識とどちらが深く豊かでしょうか。

比較できない部分はもちろんあるとは思いますが
畏れすぎて聖域化して思考停止してはいけないのではないかとは思います。

案外、現代の思考法から紐解けば悟りの構造も単純かもしれないというアプローチも大切かもしれません。


昔は学問・科学が発達しておらず、語彙がなかったために、そして抽象的概念を共有しにくかったために、まわりくどい神様ファンタジーが作られたように思います。

ファンタジーと古語の皮を剥いで行って残ったところにある悟りとは


「自己という意識を社会から一度離脱させて」

同時に

「その時の自然状態の自分を自分で全肯定する」

ということではないかなと思います。


めちゃくちゃ単純です。


宗教を学問として相対的に学ぶという視点から見ていると
大体そういうことを言ってるのではないかなと思えるんですけども、
違ってたらごめんなさい。



社会性の分離


社会とは自分をとりまく他者すべてと
新聞やテレビでイメージする社会というなにかですが

他者との関係性で優位性を保ちたいというのが
人間の大きな苦しみです。
もっとひらたく言えば
人に認められたい、自分の価値を、ありがたみを認められたいということ
これに囚われだすと欲望と苦しみは際限なく増幅します。

生きることに必要なものだけでも得ることが大変なのに
他者に関われば関わるほど
社会に関われば関わるほど
それ以上のものを欲しくなってしまいます。

でも他者や社会とかかわらないで生きていくことはできませんので
群れる生物ですから
たまに本来の自然状態の自分とはなにかを振り返る必要がある・・
本来の自分を認めるあるいは認めてもらう必要がある・・
と「悟りのある宗教」は言ってる気がします。


自然状態の自己の肯定


最近は断捨離をされる方やミニマリストの方も多いので
感覚的に分かられることではないかと思います。

社会から一度自分を切り離して考えてみて
そこにいる自分に自信を持てたら
社会との付き合い方、距離の取り方が楽になると思います。

それでもなかなか
苦しいさ中にある人は
それが言うても難しいのだと
お分かりになると思います。


自分に自信を持つ
そんなことできたら世話ないのだと。

他人と比較しないでどうやって自分の価値を認めることができるのかと。

学校から離れて、会社から離れて、恋人から離れて、友人から離れて
自分の価値をどう示せばいいのかと

そう思う人が世の中多いように思います。

ただの生き物である自分を見たときに
なんて愛おしいのだろうと思えることが大切です。
生きていることが喜ばしいと思えることが大切です。


それが思える人は

等身大の自分のサイズに合わせて社会と関係性を結び直んでいくことができるので、背伸びする必要もなく、卑下する必要もなく、焦燥に駆られる必要もなく、恨みや怒りを抱くこともなく、とても楽に過ごせます。

単純ですが難しいことです。


最近はよく
「自己肯定感を高めましょう」なんて言い方もよく目にしますが

自己肯定感の低い方が
自分を全肯定するというのはちょっと難しい作業です。


どうすれば持てるのかというところを
宗教は色んな方法で示しますが

祈りの言葉や
とんちの言葉や
坐禅するということや
作務をするということや
文字を書くとか見るとか
絵画を描くとか見るとか
仏像を彫るとか見るとか
山を走ったり
滝に打たれたり
火を焚いたり
岩からぶら下がったり

意識さえ持っていれば
そういうなかでヒョッと体得できるようにはなってるのではないかなあ・・



宇宙飛行士さんの経験知


私自身は宗教者や信仰者ではなく
学問という視点から
宗教や各宗派の在り方をそれぞれ学んで
外側から総体を眺めたことや
西洋哲学や近代思想・現代思想や
科学、文学、そして社会を学んだことから
概ねそういうものではないかと思うように至ったのですが

その視点から見て
現代社会の中で知恵の優れている方が
メンタルヘルスのために言われていることも
大体同じことが多いように思います。


臨床心理学者の高垣忠一郎さんが提唱した「自己肯定感」は

「他人と共にありながら自分は自分であって大丈夫だ」という、
他者に対する信頼と自分に対する信頼

wikipedia

という意味だそうです。

IT関係の方など業務効率化のためによく取り入れられている
マインドフルネスは

「今この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに捕らわれのない状態で、ただ観ること」

wikipedia

という意味だそうです。


似ている感じがしますね。
高垣先生は河合隼雄先生に師事していて
河合隼雄先生は禅を心理学に取り入れていますし
マインドフルネスは
ジョン・カバット・ジン氏が禅を科学に捉え直して作ったものなので
似てくるのは当然なのですが。



たとえば最近見た動画の中で
宇宙飛行士の野口聡一さんが

「生きることができて良かったと思える人が今の日本には少ない」

と仰っていましたが、まさにそれと思います。


なので宗教に依らず、野口聡一さんの著書を読んだりするほうが

何かしら得るものは大きく速いのかもしれません。。。


だって古代は宇宙なんて行ったこと皆ないわけですからね!
古代ギリシアやインドや中国の思想家たちも真理の解明のためなら宇宙にも行ってみたかったのではないかと思います。


昔ながらの宗教は結局言葉が難しいうえに
短歌を詠む人が昔の有名の短歌を引用するような
文学的技術が必要になってるように思えます。
同じ宗門の中でも解釈が多岐にわたるようで
組織や言語の限界を考えると
本当に今すぐ困っている人にすると、
昔ながらの宗教は遠回りな部分もあるかもしれません。



昔からの宗教の効能


昔ながらの宗教は
しかし良い面もあるのではないかという考え方も
挙げておきたいなと思います。

たまにケロっと
生まれつき満ち足りて幸せそうな人がいますね。
人から言われることも気にならないし
いつも多幸感に溢れていて、さして欲しいものもない。
そのときそのときの出会いを大切にして
身の回りの人を大切にできて
自分を大切にできて焦ることもない
そういう人っていますよね。

仏か~天使か~みたいに思う人。


そんなわけない
実際はみんな欲望まみれだろうとか劣等感まみれじゃないのかという見方もあるかなとは思いますが

でも実際いらっしゃるんですよね。
自分のことより人のことに尽くせたり
愛するということが当たり前だと言いきれたりする方。

そういう人は多分仏だったり天使だったりするんだろうなと思います。
信仰というのもいらないのだろうと思います。


そういう人ってどうして生まれるのでしょうか。


生まれたときから家族に大事に愛されて
自己肯定感をたっぷり蓄えて育ったのだろうと思うんですよね。


愛情って大事ですよということは
別に当たり前のことではなく
それも
依存的な執着的な愛ではなく
大切に思うような愛情というのは
生得的に備わったのではなく


それこそ1000年前からあるような宗教が
愛することを教え続けたために
世の中には一定数そういう幸せな家庭があるのだろうと思います。


宗教家の大部分は人を悟りに導けるようなところまで
到達するわけではないと思うのですが、

しかし誠実な宗教家の方々は、
「死の解決」の儀式の中で、
家族愛・隣人愛について言葉をくだいて浸透させることで、
人間の自己肯定感を高めて、苦しむ必要がない人間を育てるよう尽力することを繰り返してきたのではないかと思います。

故人を供養するということはその都度、故人に愛された記憶を思い出し、自己肯定感を高めることになりますし、お坊さんもよくお通夜や法事でそういうお説教をされていますよね。


親からの愛情などで
自己肯定感がぐっと高い状態を維持出来たら
わざわざ修行しなくとも
自分を肯定することに障害がありません。


風習化している伝統的宗教が果たしている役割自体は
老朽化して定式化していて
そんなの当たり前だと思えて
意味がないように思われるかもしれませんが
あながち悪いものではない部分もあるように思います。




これからの宗教とは


宗教家の中にはよりよく教えを伝え、人を助けようと務めている方もいらっしゃいます。


いつの時代も一定の人はよりよく、一定の人は弱くあるのだろうと思います。そういう割合で持続していくものかもしれません。


しかし、形あるものは滅びていきます。
持続させようとする働きはあっても
様々な要因からボロボロと滅びていくことも
また避けられないのかもしれません。


できるだけ滅びないように
もう少しだけ現代の社会に合わせて
アップデートしてもらえないかと思う部分はよくあります。


野口聡一さんや高垣先生やジョン・カバット・ジンのような
現代を生きる賢者の教えが
現代人の生きる指針となり、宗教は不要とされていくのか
それとも宗教は必要とされるようになり再生復活するのか
いずれにしろもう少し社会の中で存在感を高めてもらう必要があるのではないかと思います。


たとえば、宗教には人類愛を定着させる力があったことを前項で書きましたが、確かに過去はそういう力があったかもしれませんが、現代の人はこう思うかもしれません。

「お母さんは神様が家族を愛しなさいと言ったから私のことを愛するの?」

神様がファンタジーであることに気づいてしまった現代では、本当に神様を信じる人と、ファンタジーだと思う人の間に溝が生まれてしまいます。


宗教家の皆さんの中には、この溝をなんとか言葉巧みに説明しようとされている方もいらっしゃいますが、解決しないといけない問題のひとつかもしれません。


またたとえば故人を弔うための墓地が、生きている人の住む住居よりも高いというのは、不況や異常気象や感染症拡大の不測の時代を生き抜いてきたこれからの世代の方には受け入れ難いことになっていくでしょうが、宗教界は対応していくのでしょうか。

労働が正当に対価で評価されない時代です。
お金がなかったら十分な埋葬ができませんよなんて言い方は、
それまでを必死で生き抜いてきた方の努力を冒涜することになるでしょう。


激甚災害の現場でも宗教の在り方が問われていると思います。
東北の震災の折に、我が家で被災者の方の受け入れをしたとき、
予想以上の人数でお見えになり、近所のお寺さんが、大きいところも小さいところもたくさんあるのに、まったく受け入れをされなかったということがありましたが、当時の私にはちょっとした驚きでした。どんなお寺にも、うちより広い座敷があるのになあと。

被災者の方から、我が家のお仏壇で仏さんの埋葬をしたいという申し入れがあったときも、個人の家の仏壇でいいのだろうかと思い、ちょっと遠方の知り合いのお寺さんで受け入れてくださるところを紹介させてもらったのですが、結局うちのお仏壇でということになり、近所のお寺さんが読経にだけ来られたのを見たら本当に悲しい思いがしました。
近所のお寺さんではどうしてお葬式できないのでしょうか?

おかしなことです。


これからも激甚災害は増えていくと思いますが、
そのときまた宗教家の方の対応は問われていくと思います。


これまでカフェ経営のときから悩み事のある方のご相談なども受けてきましたが、正直、行政や医療機関に相談に行きづらいという方のご相談を、地元のお寺さんが受けてくれなければ、みなさんどんどん弱みを突かれて詐欺被害に遭われてしまいます。


最近SNSで、「檀家さんの信仰が不熱心だから今のような世の中になってしまうのだ」と今の世の中の状態の責任はまったく檀家さん側の怠慢のせいであるというような意見がお寺さんに一定数あるのを見て、これも驚きました。

檀家さんが信仰するしないというのはまったく自由です。
信仰することの大切さを布教をして知ってもらうのは宗教家の方のつとめだと思うのですが、人が信仰することはまるで義務であるかのような考え方です。

うーん

書き出すと色々噴出してしまいます。

色んな理由があってしょうがないんだから、そんなことを問われる筋合いはないという宗教家の方ももちろんいらっしゃるだろうなあと思います。


檀家さんの少ない小さなお寺さんのご住職は、普通のお仕事もしながら僧侶の務めもこなされていて、お寺の収益だけでは維持もままならないということはよく分かっています。

頑張られてるお坊さんもいらっしゃることもよく分かっています。


同じ数以上に、まあそうではない現実も色々見ています。


宗教はもう必要がなくなるものなのでしょうか。
それともたしかに機能していくものなのでしょうか。


これからの政治と宗教とは



心理学や精神医学、脳科学が発達していなかった過去の世界では
宗教は社会の中で人の心を守る役割を一定果たしてきたのだと思います。

信教の自由が法律で守られているのは
多くの人の心を救うものであることが認められているからでしょう。


しかし法に定められているといっても
政治はこれまでどれだけ人の心に向き合ってきたでしょうか。


苦しんでる方、悩んでいる方がとても多いのに
精神や心の問題は見えない分、ないものとして扱われやすいようです。




しかし学問の世界では、哲学・倫理学・宗教学・心理学といったものは
ずっと構築されてきましたし、精神医学や脳科学も日進月歩で進化しています。


文化的に、また医学的に一定の効果の認められる伝統的宗教と
身を破滅させるほど幸福に金銭的対価を請求する宗教団体との間に
宗教であるか、詐欺であるかの線を引くことは可能であると信じます。


伝統的宗教の文化財としての保存と学習
宗教的効能の科学への変換、心理学・医学への上位変換を
そろそろ行うべきときであると感じます。



宗教学の見地から
宗教の本来の意義をしっかりとらえなおし
どこまでが善いものと認められ
どこからが善いものとは認められないかの
線引きを行うことはできると思います。


政教分離と言いますが
公権力を宗教に与えないという意味であり
政治は宗教に不介入という意味ではありません。
立法府として法に定められているところを守り
また国民の利益を守るため
消費者トラブルとしての宗教問題を整理されることを
心から願っております。


また、悩める方も甘い言葉に誘われてしまわないように
世の中あまりにも、甘い誘惑の罠が多すぎるのですが
頼んでもいないのに間合いを詰めてくるひとの大部分はそういう方なのだと
よくよく注意して、安全を確かめながら心をケアしてほしいなと思います。


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